食のエッセイ

プリニウス先生も夢中だったもの

 古代ローマの博物学者大プリニウスは、ミツバチ大好きおじさんであった。彼が記した『博物誌』の中でもミツバチについての項目のタイトルは「最高の創造物」であり、記述や分析、そして考証も他の生物よりもはるかに力が入っていて綿密だ。プリニウスがミツバチをここまで賞賛する理由はいくつかあるが、彼が特に感動をしているのがミツバチの合理的な社会性と勤勉さ、そして当時から世界の人々が、既に生活の嗜好品としていた蜂蜜の製造主という点である。プリニウスの『博物誌』に記されていることの大半は、実は彼が読み込んだアリストテレスをはじめとする、過去から残された膨大な量の文献や資料に基づいているが、ミツバチについては珍しく、彼自身が実際に密着観察をした形跡が生々しく感じられる描写が多くて面白い。

 プリニウス先生は、ミツバチの巣をそのハイスペックな社会性に対してリスペクトを込めつつ“王宮”と称していて、六角形の小部屋はハチが6本脚の1本だけを巧みに動かして形成すると記録している。1本脚でせっせと作られた小部屋のひとつひとつは1日ないし2日掛けて蜜で満たされるという記述など、まさに自らじっと蜂蜜の巣に目を凝らしているプリニウスの集中力と息遣いが生々しく感じられるような描写だ。

 しかし、そうした実際の観察記録だけでは収まらないのがプリニウス節である。彼は持ち前の突出した想像力を持ってここにSFスペクタクルファンタジーを盛り込んだ。プリニウスによると蜂蜜はシリウス星が光を放つ夜明け直前のみ、空気中から発生するのだそうで、スバル星が登るまでは“絶対”に(絶対という言葉をプリニウス先生は好んで多用する)作られない。しかし、そこに満月が重なればクオリティは更にアップするという。プリニウス先生は夜露を空気の汗と解釈しているが、蜂蜜もその空気の汗や空気の自己浄化による湿り気、もしくは星たちの“唾液”ではないか、と考察されていらっしゃる。その液体を吸収したミツバチが口から吐き出したものが蜂蜜になる、というのが彼なりの解釈である。

 このプリニウスの分析を読んでいると蜂蜜がめちゃくちゃスペシャルな創造物のように思えてくるし、当時の人々にとって蜂蜜がどれだけ尊いものであったかもうかがえる。そして実際、蜂蜜は太古のむかしから、人類にとってまさにこの上なくスペシャルな産物だったのである。

 「蜂蜜の歴史は人類の歴史」という諺が古くからあるらしいが、スペインでは新石器時代の壁画に養蜂をする人間の姿が壁画として描かれているのが残っている。古代エジプトにも養蜂の記録があるし、ギリシャ神話にはアリスタイオスという蜂蜜の神様も存在している。お酒の神様であるディオニューソス(バッカス)もそもそもは蜂蜜を発酵させた蜂蜜酒の神であったとされているが、蜂蜜の一般的需要が拡張したのはまさにこのギリシャ時代のことであり、当時は養蜂家同士が争わないように、養蜂用の敷地の距離を定める法律までできていたというし、土地の権利を蜂蜜と交換した人の記録というのも残っているそうだ。しかもアリストテレスの記述によれば当時のギリシャ人たちの蜂蜜消費量は現代のものよりもはるかに上だったというから、当時もやはり甘いものの誘惑に勝てないスイーツ好き人間がたくさんいたのかもしれない。

 そのまま舐めたり何かに付けて食べたりするだけではなく、蜂蜜には酵母増殖を助ける力もあることから、紀元前200年のギリシャには蜂蜜入りのパンが70種類以上もあったのだそうだ。純度の高い地中海の蜂蜜を使った、ホカホカで程よい甘みのあるパンは、さぞかし人々をうっとりさせるような味だったに違いない。

 蜂蜜は古代ローマにおいては料理の味付けとしても多様に用いられるようになっていく。彼らが嗜好していた当時のワインは、アルコール分が高いのでお湯で割った中に蜂蜜を混ぜて甘く飲みやすくしていたのだそうだ。

 とにもかくにも、古代から今に至るまで絶えることなく人間に(人間だけではないけど)摂取され続け、商業としても継続してきた蜂蜜はまさにプリニウス先生が絶賛する、史上最高の地球の産物なのである。

 そして何を隠そう、この私も実は大の蜂蜜好きである。世界どこへ行こうと必ずその土地の何種類もの蜂蜜を舐め、その土地の蜂蜜の味を知り、コレクション用に購入する。我が家のキッチンの隠し扉の中には日本各地や世界各国の蜂蜜の瓶がぎっしり並んでいるが、一番最近のものではタイのアカ族が採取した蜂蜜と、国内のものだとテレビの取材で訪れた壱岐の蜂蜜だ。そして最近の私の手土産の流行りが蜂蜜で、どなたかのお家にお呼ばれしたり、対談でお会いするようなことがあると、カバンの中から蜂蜜の瓶を取り出して献上するのである。受け取った人は大抵「えっ、蜂蜜!?(なんで!?)」というリアクションをするが、私が人様にお渡しする蜂蜜はそんじょそこらの蜂蜜ではない。最近特にはまっているのがシチリアのエトナ山の麓にしか生息しない黒ミツバチが採取した“キャロブ”という、これまた古代時代の甘味料として用いられていた樹木から採取されたもの、またはハワイ島のホワイトハニーである。日本ではマヌカハニーが健康食として有名だが、この世にはもっと知名度を上げてほしい、美味しい蜂蜜はまだまだたくさんある。

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我が家の蜂蜜(撮影:ヤマザキマリ)

 現代の人々は古代ギリシャやローマの人たちと比べてはるかに蜂蜜の消費量が少ない。別になくても困らないものとして、常備という扱いも受けていない。でも、蜂蜜は甘味という用途だけではなく、古代ではありがたい薬として様々な治療に使われていたということを、プリニウス先生の言葉を借りるなら“絶対”に忘れてはいけない。

 今でも喉が痛いとか風邪の兆候がある場合に限って蜂蜜やプロポリスは積極的に摂取されているが、プリニウス先生の博物誌によると蜂蜜は体の中に混入したあらゆる異物を取り除き、腫れを引かせ、硬化を和らげ、筋肉の痛みを和らげ、不治とも見える潰瘍を癒し、衰えも抑制するのだという。煎じて飲めば、肺炎、傷、中毒にも効き、ワインと混ぜて飲めば中風にも効くのだそうだ。

 古代ギリシャの医学者ヒポクラテスによれば蜂蜜には吹き出物にも効果があるとしているし、古代エジプトの医学書には軟膏、湿布薬としても用いられていた記録が残っている。要するにベトベトの蜂蜜を布に塗って、患部を覆うのも効果的ということだ。中国の三国時代には「神農本草経」によれば野生の蜂蜜には五臓を安らかにし、精神を落ち着け、解毒作用を持って多くの病を治癒し、長く摂取すれば体は健康になって老いることもない、と記されている。つまり蜂蜜とはどんな人間の不具合にも対応してくれる奇跡の万能薬として、古代の人々の暮らしの支えとなってきたのである。

 現代医学が発達した今を生きる我々はつい眉唾気味についついこうした記述を読んでしまいがちだが、例えば現代でも蜂蜜の整腸作用については2000年前のプリニウス先生も既に知っていたし、咽喉の不具合があれば先述したように古代の人だけではなく、現代の人々も蜂蜜を舐めることがあるわけだから、全ての過去の記録がデタラメとは言い切れない。実際蜂蜜には強い殺菌作用があることが立証されており、古代ローマの軍人たちが負傷した部分に蜂蜜を塗った包帯を巻いていたのは、感染から傷を守りつつ、それなりの治癒力もあったからなのだろう。火傷にも水で冷やした後に薄めて塗ると効果があるともされている。古代ローマの詩人オウィディウスの著書「恋の技法」には蜂蜜には精力増強作用があると書かれているが、実際現代の分析によっても蜂蜜には僅かながら発情物質があることが解明されたらしい。

 とにかく蜂蜜は、常備さえしておけば、どこかで役に立つ時がくるかもしれない、ということである。いつまでたっても薬として使われる気配がない場合は、イタリアのチーズであるゴルゴンゾーラやアジアーゴなどにちょっと垂らして赤ワインの肴として消費すればいいのである(私の蜂蜜用途はほぼこれ)。

 イタリアのチーズ以外でも蜂蜜とマッチングするものはたくさんあるが、ちなみにアジアーゴの場合は、電子レンジでほんの少しだけ、わずかに溶ける寸前くらいまで柔らかくした状態のものにチーズをかけると、より美味しいかもしれない。フレッシュなリコッタチーズが手に入れば、これもほんの少しだけ温めて蜂蜜をつけて食べるとめちゃくちゃうまい。このチーズと蜂蜜の掛け合わせはおそらく古代ローマ人の味わっていた味覚に近いものがあるはずだ。

 ちなみに私の目論見では、60歳あたりまで漫画を頑張ったらイタリアの夫の実家の広大な敷地の一部で養蜂を始めることである。人前でこの話をするたびに「え、養蜂ですか!?なんでまた養蜂...」と驚かれるが、実は私の義父はかつて友人の養蜂家に敷地を提供し、短い間だったが養蜂をやっていたことがあった。彼にはミツバチ愛が足りなくて長続きしなかったが、元来昆虫好きの私であればきっともっとやりごたえのある養蜂を経験できるかもしれない。数年前、そんな意図を念頭に置いた状態で、ヴェスビオ火山の麓で養蜂をやっている夫婦を取材で訪ねたことがあるが、蜂蜜で細々と生計を立てているこの一家の慎ましくもなんとも幸せそうな様子は印象的だった。自然の恩恵を必要な分だけ分けてもらう仕事に従事する人々は世界中どこでも謙虚で清々しい。「初めて誘われたデートが山にミツバチ採取だったのよ」と笑う奥さんにとってミツバチは「最高の生き物。そしてわたしの大事な大事な子供達」なんだそうである。さすがプリニウス先生の息が吹きかかった地域に生きる人々の言葉である。養蜂をまだ始めてもいない私にとっても、人間の歴史を蜂蜜というワンダー産物で支えてきたミツバチはことごとく素晴らしい昆虫なのである。ミツバチ万歳、蜂蜜万歳。

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

1967年東京都出身。

17歳で絵画の勉強のためイタリアに渡り、国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で、油絵と美術史を専攻。'97年漫画家デビュー。

『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。

著書に『国境のない生き方』(小学館)、『男性論』(文春新書)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)など多数。

エジプト、シリア、ポルトガル、米国を経て現在はイタリア在住。

平成27年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

平成29年イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。