食のエッセイ

地下の天国

 海外暮らしが長いため、日本の何が一番恋しくなりますか? という質問を何度か受けてきた。質問者の殆どは私が「風呂です」と答えるのを期待していたのかもしれないが、残念ながら5年前に暮らし始めたパドヴァの家には、巨大な風呂が設えられている。だから、あのローマ人が日本の銭湯に現れるという漫画を描いた頃の、入浴への渇望感を日々抱えて生きていた時とは事情が違う。

「風呂」という答えが貰えないと質問者はがっかりするが、知ったことではない。今の私であれば、迷わずこう答えるだろう。
「デパ地下です」

 正直、デパ地下への恋しさは、海外滞在中に限ったものではない。日本に長期間滞在しているときですら、私は日々デパ地下のことを想いながら過ごしていると言っていい。日本での仕事場は二子玉川に近い大井町線沿線上にある。電車に飛び乗りさえすれば、ものの数分で物欲を掻き立てて止まない素敵なデパートに足を踏み入れることができるので、ようし、この原稿が終わったらデパ地下に行って食べたいもの全部買うぞ!といったん決意さえすれば、ペンの進みも格段に違ってくる。今のところ効果は抜群だ。

 子供の頃の私にとってのデパートは、おもちゃ売り場(おもちゃというより、私はぬいぐるみが好きだったのだけど)と、屋上のレストラン、ペット売り場、そして遊園地。若いころはパルコなどのおしゃれデパートで、流行りのデザイナーズブランドの店巡り。

 中年になって以降は、目的のフロアといえば、もっぱらデパ地下。地上階には気力と体力のある時しか登らない。同世代の友人と待ち合わせをするのもデパ地下。出先での用事が早く終ると出かけるのはデパ地下。要するに、子供時代はあの高い建物の天空で補うことができていたワクワク感を、今では地表の下で得ているというわけだ。

 そんなはずはないだろうと思って調べてみたが、デパ地下というのはどうやら日本独特のものらしい。勿論、大型商業施設の地下が食料品店やスーパーになっている場所は世界にも沢山ある。リスボンに暮らしていた時も、私が足繁く出かけていたのは、移民たちが集まる広場に面して建っていた建物の地下にある食料品店だった。でも、それとデパ地下はまるっきり次元が違う。デパート文化の発達していないイタリアではましてや、あんな世界があることすら知らない人達は沢山いる。

 15年程前、11名のイタリアの親戚友人平均年齢65歳のオバちゃんグループを引率して日本を歩き回っていた時も、デパートの存在にすっかり虜になった彼女達が最も興奮したのがデパ地下だった。
「何!? この信じられない空間は…」と瞳孔の開ききった目で、人の声など耳に入らないトランス状態に陥ったオバちゃんたちは、色とりどりの華やかなお菓子から美しくレイアウトされたお惣菜、パンから野菜に果物が並べられた地下空間を夢遊病にでもなったかのように彷徨っていた。そして皆、頭の中で同じ事を考えていた。

「地表の下と言えば普通は地獄なのに、ここはまるで天国じゃないか!」

 そして活気に満ちた店舗の販売員に、買物に余念のない主婦たちのパワーにすっかり圧倒されていた。彼女達はイタリアに帰った後も、集まる機会があればこの懐かしくもあまりに印象的だったデパ地下の話に余念がない。「あの地下天国は素晴らしかったわねえ、イタリアの食材もお惣菜も売っていたけど、悪くなさそうだったしねえ」「あそこで買ったパンは世界一美味しかったわ」「ガラスケースの中に並べられたお菓子の美しかったこと!」「地下天国、最高よねえ」

 オバちゃんたちの思い出話は尽きる事がなく、今度日本へ行く事があったら、もう寺巡りや旧所名跡なんかいいから、その分2日間くらいゆっくり時間を掛けてデパ地下だけを探索したいもんだわ、などと盛り上がっていた。

 デパ地下というのは言わば常設の食の博覧会場である。むかしであれば、レストランや食堂の店頭に飾られていた蝋細工を真剣に見つめつつ、視覚情報から味覚の想像を膨らますというあの感覚を、デパ地下では思う存分に楽しむことができるのである。

 ちなみに年末年始に日本に滞在していたイタリア人の夫もデパ地下に取り憑かれているひとりである。

 散歩してくる、と出かけては、数時間後に二子玉川のデパートの手提げ袋を下げて帰ってくる。時にはケーキ、時には魚の煮付けや焼き鳥。イタリア風の総菜に、果物と生クリームの挟まったサンドウィッチ。「ねえ、この辺の人達は家で料理なんかしてないんじゃないの」と問われるが、一人暮らしならまだしも、家族で毎日デパ地下のお惣菜なんか食べてたら破産しちゃうよ、と答える。デパ地下のお惣菜は確かに安く無い。夫が買ってきた、小さな容器に入ったラタトゥイユが500円。イタリアで500円分の野菜を買えば何皿分ものラタトゥイユが作れるだろう。

 でもデパ地下は、そのように値段が多少高いけど、滅多に作りも食べもしない惣菜を好きな分量だけ買い求めるという、ささやかな贅沢を楽しむ場所でもある。和洋中、エスニック、なんでも取り混ぜて、いろんな味を少しずつ楽しみたい。イタリアみたいに食に保守的な国では、こんな買物のスタイルがそもそも定着するとも思えないわけだが、それでもデパ地下を訪れて感激するイタリア人を私は沢山見てきている。

 先述のオバちゃんたちが日本の旅行中最も興奮していたのが、大阪や京都など関西のデパ地下だった。活発に買物をしたり立ち食いをしているお客から放出されるエネルギーに、某かの親近感を感じていたのかもしれない。ちなみに私も仕事で関西方面へ行く事があると、阪急うめだのデパ地下の甘いもの売り場に足を運ぶ。行くと必ずと言っていいほど、買う予定もなければ買いたかったはずもないものを、店員さんの推しでついついノーと言えずに買ってしまうのだが、これが実はまた楽しい。思いもかけないものと出逢い、それが自分に取って生涯気に入りの嗜好品となることもある。

 ちなみに私がデパ地下で見つけて以来大好物になったものに、大阪の老舗の飴屋で製造されている山椒味の有平糖というのがある。デパ地下の中でも私が特に気に入っている“全国の銘菓コーナー”で見つけたものだが、いつだったか最初に見つけた東京のデパ地下でもう置いていないと言われて、絶望的な気持ちになったものだった。それくらい私のツボにはまる味だったのである。その後私は大阪のデパ地下でこの飴を入手し、東京へ戻る新幹線の中で山椒のピリピリ感と繊細で脆い飴の感触にひとしきり歓びを噛み締めた。あの飴も、デパ地下という、博覧会的環境ならではの出会いだったと思っている。

 地下の天国、デパ地下。確かにお風呂も温泉も私にとって無くてはならないものではあるけれど、ふと疲れた時に気持ちを満たしてくれるこのワンダーランドがある限り、まだまだ仕事を頑張っていけそうだ。

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

1967年東京都出身。

17歳で絵画の勉強のためイタリアに渡り、国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で、油絵と美術史を専攻。'97年漫画家デビュー。

『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。

著書に『国境のない生き方』(小学館)、『男性論』(文春新書)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)など多数。

エジプト、シリア、ポルトガル、米国を経て現在はイタリア在住。

平成27年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

平成29年イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。