食のエッセイ

”食べられる物”と”食べ物” 第1回

人間にとって、最も大切なものは何でしょうか。
「衣・食・住だ」という答えが、瞬時に返ってくるに違いありません。
しかし、その種の答えは、同じものが世界の国々のすべてで聞かれるというわけではありません。日本の中だけでも、人間にとって最も大切なものは「お金だ」と言う人は少なくないと思います。ただ、その場の状況によっては、そういう答えをすることは人前では恥ずかしいという気持ちになり、口にするのを遠慮してしまう人が多いのです。「大切なものは家族です」という答えは、「なるほど」と思わせるかも知れませんが、「愛です」などという答えは、人前で言うには気恥しいと思う人も多いでしょう。

極端と思われるでしょうが、日本とは非常に異なった社会での例をあげますと、ニュ-ギニアの一部の社会では、人間にとって最も大切なものは、財産でも家柄でもなく、“血液”と“精液”だということです。なるほど、考えてみれば、これらもまた人間の存在とその存続にとって、最も大切なものだということになりそうです。その土地の男のなかには、何かの機会に人前で自分の腕を切って、血をドッと出して気前の良いところを見せる人物がいます。その行為は、日本での場合で言えば、数人の人と飲食を共にして、会計の時に気前よく奢るという行為に匹敵します。その土地では、男は性行為にはあまり乗り気ではありません。言うまでもなく、大切なものを無駄に出してしまうのは、もったいないからです。他方、女性には月のものがありますが、それは大切なものを定期的に無駄に捨ててしまうということで、女はどうかしているという評価が伴い、性差別の理由となります。

何かが大切であると思うことは、生理学的な根拠に基づくというよりは、生まれてから身に付けた“文化”に重点を置く部分が多いのです。世界の如何なる土地であっても、人は、どの時代に生まれ、どの土地に育ち、何を聞いたり、教えられたりしたかに大きな影響を受けます。
それでは、国や文化の違いとは関係なく、全人類にとって共通する最も重要なものは何なのでしょうか。言うまでもなく、“命”です。命なしには、人間について考えることは不可能です。それは死後のことになれば重要ではなくなるという訳でもありません。日本語で意味する“死後”でも、社会によっては、その人物は別の世界、あの世、天国、などで生きていると信じています。そこでは人の命は死後も続いているのです。したがって、そうした社会では、最も大事なもののなかに死後の“命”を含んでも、当然のことと考えられます。

“命”という根源的なものは別として、それでは地上のすべての人間にとって共通の、最も大切なものは何でしょうか。それは“食べ物”と“性”と“休養”です。これらすべては、自然科学的な根拠から見たならば、物理的に人間の生命を支えるものであることでは“命”と変わりありません。しかし、実はこれらすべてに関しては、各々の土地の人々が“食べ物”や“性”や“休養”に、“どのように”かかわり合うかといった面に重点が置かれているものなのです。そのあり方は社会ごとに、時代ごとに異なります。すなわち、個々の社会の伝統や道徳、宗教、等々に縛られた、極めて“文化”的なものなのです。
ある社会で“食べ物”であるものは、別の社会では気味悪くて避ける物でしかありません。ある社会では理想的である“性”のあり方は、別の社会に生きる人々にとっては不道徳そのものでしかありません。ある社会では最も楽しいとされる種類の“気晴らし”や、“くつろぎ”も、別の社会の人々の目には馬鹿馬鹿しいか、時間の無駄でしかないものであるとしか映りません。

これから何回かにわたって、お話する予定の“食べ物”の話では、注意しておくことがあります。内容は、基本的には個人的なことではありません。たとえば、「わたしはネギが嫌いだから、わたしにとってネギは“食べ物”ではない」と言う人が出てきます。それは、その人は個人的には間違ってはいません。しかし、ここでの話は、個人的な好き嫌いは別です。一般論としては、日本人にとってはネギは“食べ物”だと認めることが出来るということです。他方、日本では、“猫”や“ウジ虫”は“食べ物”であるとは考えられていないという話なのです。テレビのビックリ・ショ-で、トカゲを生(なま)で食べる人を見たから、「それも“食べ物”と言えるのではないですか」という質問を受けることが時々あります。ここでは、何万人、何十万人に一人にという人物の例外的な趣味の話が主題となっているのではありません。普通には有り得ない特別な経験談を披露するというのでもありません。日本人は、米やキャベツやサンマは、意識的に考えずとも“食べ物”だと信じているというような、極く当たり前の話なのです。それでも、そのことを少し深く考えてみれば、思いがけない発見もあるというものです。

食べ物の話をし始めますと、どういうわけか個人的な好き嫌い、例外的な人物の趣味、異常な状況のなかでの行為などということと、一般論との区別が付かない人が、非常に多いことに気づきます。考えてみれば、そのことも“食べ物”が個人と密接に関係している大切な物だということの一つの証明であるとも言えるのではないでしょうか。

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。

主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。

また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。

第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。

また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。