ミラノ万博取材記
先日、7月に放映されるテレビの取材の為にミラノ万博を訪れた。
『地球に食料を、生物にエネルギーを』というテーマのこのイベントに要する莫大な費用と、現在のイタリアの深刻な経済状況の軋轢によって、開催前には反対派と政府との間に何処の紛争かと思うような大騒動が起こったりもしていたが、実際ミラノ郊外の会場に赴いてみると、そこはひたすら平和なムードに包まれていた。
地球温暖化や自然破壊が影響を及ぼしていると考えられる異常気象による食料生産の危機、経済格差による食の供給のバランス崩壊といったことに焦点を当てた、各国のパビリオンが百万㎡という広大な敷地に並んでいるその有様は、さながら小さな地球。現実世界では互いに敵対し合って容赦のない状況になっているような国々のパビリオンが、大して離れてもいないようなところに設置されていて、お互いのスタッフが屈託ない様子でその周辺をうろうろしている光景は見ていてホッとする。期間限定のこのイベントの中ではいくらでも許される平和が、外側ではそうはいかないのだと思うと何とも不思議だが、まあ、万博の実態とはまさにその現実では叶わない架空世界を意味するものなのかもしれない。
経済力がある国のパビリオンは、ドイツでもアメリカでも日本でも、そしてアラブ首長国連邦でもそうだが、やはりその佇まいからして存在感のインパクトが強烈だし、中に入ればじっくり手間の掛かった展示やパフォーマンスで人々を楽しませる仕組みになっている。
例えばドイツ館は、土壌、水、気候変動と生物多様性、都市と世界の食料生産と消費廃棄処分といった社会的問題を、子供から大人までが興味を持てるように配慮した展示物や電子ツールで扱い、現状をしっかりと、しかも楽しく学べる構成になっている。でも、パビリオンから出ればそこには、開放感をもたらすドイツ麦酒とソーセージが楽しめる食堂や、踊れるライブイベントが待ち構えているのだ。万博でどこよりも先に完成したパビリオンだと聞いていたが、ドイツソーセージも含めてさすがだと唸る。
かつてまだ幼い子供とルフトハンザ機でヨーロッパと日本を移動をした時、機内で息子がもらったのは木工職人が作ったシンプルで知性を育ませるようなおもちゃだった。他の航空会社なら自社のロゴが入ったような、邪念たっぷりのプラスチック製玩具を渡されるところだが、今回のパビリオンでもその時と同様、質実剛健に見えてエンターテイメント性も怠らないドイツの正統で完璧な演出力を感じたのだった。
万博内でも大人気で、中に入るのに何十分も待たされるのは必至の日本館も訪れてみたが、これまたドイツと並んで抜かりゼロの完璧な内容のものだった。日本館では我々が食べる生き物、そしてそれらを育む自然に対する恩恵や敬いが強調されているような演出がなされていたが、捕鯨やイルカ漁等について度々世界から非難されたり注視される国でありつつも、食材となった生き物に対しての感謝を示す「いただきます」という言葉の由来を含めて、どの国よりもその相互関係を強く意識しているように感じられるのが印象的だった。
来訪者が最後に体験するバーチャル参加型パフォーマンスでは、日本の「和食」のコンセプトが『京懐石』という料理の紹介で展開される。四季の彩りと自然から賜う食材が織りなす煌びやかな演出に、日本人というのはどれだけ食べるという行為を感性と結びつける事に固執する国民なのだろうと、訪れた人々は思うだろう。
方や以前このエッセイでも取り上げた様に、日本にはイタリアの新聞社によって「世界で最も酷い食べ物」とカテゴライズされてしまうようなジャンクフードやインスタント商品も沢山生産しているわけであるが、そういった食品の存在感はパビリオンの中では勿論一切抹消されている。日本人の食に対する意識の多様性や見え難い社会的背景を理解してもらう上では、ああいうものの展示も実はあってもよかったのではないか、とちょっと思ったりもしたのだが、しかしそれは日本と限らず、どの国のパビリオンもやはり自分たちの国の、一番知ってもらいたい、一番ポジティブな側面を大々的に演出するという仕組みになっているのはよく判っている。オリンピックで運動能力の無い人間を出してみたり、ミスユニバースで美人でもなければスタイルも良くもない女性を出したりするのが叶わないのと同じ道理なのだから止むを得ない。
万博というものは、一見平和に見えても、その底辺にはやはりそれぞれの国家間の譲れぬ競争意識や隔たりや、その他諸々が蔓延っていることも忘れてはいけない。
食べ物というものが、もはや生き物の空腹を満たす為だけの用途に留まらず、多大なお金を動かす経済の資本であったり、国交間の軋轢では軍事力に代わる脅迫材料になったりしているのは、大人ならたいがい誰でも把握しているだろう。それだけではなく、精神性の生き物である人間にとっては、食べ物というものは古代の時代から、単純に空腹を満たす為だけに求められるものではなく、メンタルの調和や触発を促すツールにもなっている。太りたくないからとスタイルの維持を意識し過ぎて拒食症になる人もいれば、ストレスが溜まり過ぎて巨漢になってしまう人もいる。食べ物と人間の拘わりは、万博が提唱するテーマに収まりきらない程複雑で調整困難な事になっているのが現状なのだ。
でも、この万博の面白いところは、そういった経済国の抜け目の無い演出の合間に、ふと弛みの心地良さを感じさせてくれる風通しのよい場所もあることだ。会場内には、大きな建造物を作る経済力の無い国々が集まったクラスターという空間が所々に存在するが、場合によっては中に入っても写真の展示だけで入り口から出口まで5分とかからないものもある。そこまででなくても、エジプト館のように、建物に入って暫くはコストの掛かった演出になっていても最後の半分は完全な物産展状態になっていて、エジプト本国の観光地と同様、そういった土産物を売るのが得意なおっさんに付きまとわれて、つい乗せられて気がつくとスカラベや象形文字で自分の名前を書いてもらったパピルスを購入したりする顛末になっている。
そういった小規模パビリオンでは他の国々のように立派なレストランなど設えられていない代わりに、出口付近に簡単な料理とそれを食べるテーブルが幾つか設置されている。私はエジプトの空豆を使ったファラーフェルと、お隣のレバノン館のひよこ豆を使ったファラーフェルを食べ比べた。同じアラブ圏でも使われるアラビア語が違うように、食べ物も同じ名前だけど食材や調理法が全然違ったりする、その差異を体験できるのが面白かった。同じクラスター内のシチリア館ではシチリアのテレビが入っての料理ショーが展開されていて、私と一緒にナビゲーターを務める俳優の細川茂樹さんと2人、いきなり「このために日本からやってきてくれたお客様」としてその番組で紹介されることになってしまった。何だかよくわからないまま、お互い壇上でシェフの作ったシチリア料理を頬張り、「Buono!」と言って周りの客から拍手をされる。そんな2人の日本人の様子はきっとシチリア全土で放映されたのであろう。緩さ全開の流れだった。
実は、このようにコストの掛かっていない国のパビリオンの方が、よほどそれぞれの国の普段の食べ物や、ありのままの国民性が露顕しているのがこの万博の特徴とも言えるかもしれない。
列国の錚々たるパビリオンが並ぶ中、一カ所だけ本当ならそこにも立派な建造物があるべき場所に、ちょっとした憩いの空間が儲けられているところがある。良く見ると中にはオランダからやってきたトラック屋台が並んでいて、オランダの一般の人が普段普通に食べているようなものを好きな様に買って食べられる仕様になっている。良く見ると寛いだり音楽を聴いたりするスペースも設けられているのだが、実はオランダはそれ自体がパビリオンということになっている。
自然に、普段通りの自分の国の食の有様をコストを掛けずに見てもらう。飽食や廃棄を無くそうというのがコンセプトなのだから、この方式が一番だと思ったという責任者の言葉には強い説得力が感じられた。実際、夕方以降になると一番賑わうのがそのオランダパビリオンだという。仕事を終えた人々や他のパビリオンで働いていた人々が、一杯やりたくてわらわらと集まってくるのだそうだが、とても納得が行くような気がした。
結局人は、本当は、もっともっとシンプルに食べ物と付き合っていきたいのかもしれない。国力や経済といったものと生き物には必要不可欠な食べ物とを結びつけたりせず、気持ちの安らぐ環境で、ただ単純にお腹が空いたから、必要なものを必要な量だけ食べて満たされる、そんなシンプルな拘わりが普段から叶えられれば、自然と飽食も廃棄も今よりずっと少なくなる可能性だってあるだろう。それが現実になり得るかどうかはわからないけども。
何となくそんなことが感じられただけでも、意義のある今回の食べ物万国取材であった。

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり) 氏
漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。
1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。
2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。
著書に『国境のない生き方』(小学館)『男性論』『ヴィオラ母さん』(文春新書)『パスタ嫌い』(新潮社)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)『オリンピアキュクロス』(集英社)など多数。