食のエッセイ

味覚の自由を謳歌する

 4年前の夏、当時19歳だった実家のゴールデンレトリバーのピエラが老衰で弱り、もうそろそろ危ないというので、入院中の母に代わって面倒を見てくださっていたご家族のお宅を訪れた。

 ゴールデンレトリバーの19歳といえばギネスに記録されるほどの高齢だが、それでも少し前までは元気に散歩もしていたし、足腰が弱る気配もないほど健康だったという。自らの命の終焉を悟ってなのか、数日前から少量の水しか飲まなくなったというピエラは毛布の上に力なく横たわっていたが、私と息子の声が玄関から聞こえてくるなり、ゆっくりこちらの方へ頭を上げ、尻尾をぱたぱたと動かした。

 かつて幼い子供を連れてイタリアから日本に戻り、札幌でテレビのレポーターや大学の講師をしながら忙しくしていた私のかわりに、息子が寂しくならないようにと迎え入れたピエラだったが、私たちが再び海外に移り住むことになったのを機に、母が彼女の主人となった。当時母は既に古希を迎えていたが、毎朝大型犬であるピエラに引っ張られながら、髪を山姥のように振り乱しつつ、散歩ならぬ散走する姿はご近所のちょっとした名物となっていた。

 傘寿を過ぎてもなお老犬ピエラとのエネルギッシュな毎日を過ごしていた母は、食生活もダイナミックだった。私が目撃したのは、机に広げた夕刊を読みながら、ビール片手にとんかつをバリバリと頬張っている母の姿だった。額を汗で湿らせながら、夕刊の記事にぶつくさとぼやきつつ、ビールでとんかつを流し込んでいる主人を、老齢のピエラが脇に座ってじっと見つめている。主人のとんかつの食いっぷりに刺激され、食欲を抑えきれないような、切迫した眼差しだった。母はそんなピエラを一瞥すると、徐にテーブルの皿に乗っていたとんかつの最後の一切れをつまんでピエラの口元へ差し出したのである。驚いた私が一言上げる前に、ピエラは虫を捕獲するカメレオンの舌のような速さでとんかつを飲み込んでしまった。

「何やってるの、ピエラにとんかつなんかあげちゃダメだよ!」と驚きに任せて喚く私に母は表情ひとつ変えず「平気よ」とひとことだけ答えて、そのまま険しい顔で新聞をめくり続けていた。 「平気ったって、ピエラはもう高齢なんだから」

「あたしだって高齢よ」と新聞に目を落としたまま「いつまで生きるのかわかりゃしないんだし、美味しいものくらい自由に食べたいじゃないの。気にし過ぎこそ体の毒」と私を黙らせた。

 以前までは母もそれなりにピエラの健康を慮って、人間の食べるものをあげることなどしていなかったはずなのだが、老齢の域に入ってどこかで気にするのをやめてしまったらしい。私だけではなく息子も母に注意をしたが、こちらの意見を受け入れているような様子はなかった。

 あれから10年、寿命を迎えたピエラがそれまでにどんなものを食べ続けてきたのか知る術も無いが、ペットとして一般的な食事のケアをされていたかどうかは疑わしい。それでもギネス級に長生きできたのはどういうわけなのか。

 私たちの前で横たわるピエラは痩せてはいたが、目はキラキラと輝いていた。彼女の視線の先には私がこのご家族にお土産として持ってきたバウムクーヘンがあった。老衰の犬とは思えぬ生き生きとした目つきに一瞬皆で躊躇するも、久しぶりに食べものに反応したピエラには抗えず「ためしに一口あげてみましょうか」ということになった。そして、そっと一切れのバウムクーヘンをピエラの口元へ差し出すと、それまで力なく横たわっていた様子とはうってかわって、やはり獲物を捕獲するカメレオンの舌のごとき速さで、私の差し出したバウムクーヘンを、あっという間に飲み込んでしまったのだった。

「ピエラ…」とその場にいた全員が呆気に取られた。ピエラはバウムクーヘンに満足すると、再び毛布に上体を横たえ、尻尾をパタパタと降った。撫でてあげると目を細めて幸せそうだった。

 その二日後、ピエラが静かに息を引き取りましたという連絡をご家族から受け取った。結局バウムクーヘンがピエラにとっての最後の食事となったわけだが、最後に食べたいものを食べられてきっと嬉しかったに違いないという解釈に皆落ち着くことにした。

 ピエラが亡くなった3年目に母も入院先の病院で他界したが、ピエラへの一瞬ずさんとも思えるあの食事の与え方と自分自身の食に対しての姿勢は、おそらく子供の頃に経験した戦争での困窮が無関係ではなかったはずだ。

 それまでは裕福な家に育ち、住み込みのお手伝いさんが作る美味しい食事だけをしてきたような母が、戦争によって生活の安定を失い、生きながらえるためになんでも食べなければいけないという状況下に陥った、あの幼いころの苦しさや切なさが、生きているうちは食べたいものを食べてなんぼ、という意識を象っていったのだと思う。

 だいぶ前になるが、母を含む友人知人そして当時の私のイタリア語の生徒を含む総勢30名をシチリア旅行に案内したことがあった。この旅で、人によって美味しさの価値観の違いにどれだけ差異があるのか、美味しさという感覚を共有することの難しさを痛感させられたことがある。

 当時シチリアのチェファルーという小都市に暮らしていた友人のイタリア人が営む旅行代理店にこの旅行のコーディネートを依頼したところ、日本人との仕事の経験が無かった彼らは、イタリア人用のツアーと同じ内容のものをセッティングしてくれた。そのほうが、知られざるシチリアを知ることができるのできっと皆喜ぶだろうと判断したからだ。

 古代から地中海文明の交差路だったシチリアは、島内の地域によってそこで育まれた文化もそれぞれ特徴が異なるが、食事も同じだ。コーディネーターはそれぞれの場所で、場合によっては地元人たちが手軽に訪れるような、決してゴージャスでもなければ見栄えも冴えない建物であっても、自分を含め皆が「あそこなら美味しい」と自信を持って勧められるレストランを選んでくれていた。

 ところが、その30名の日本人観光客の中に、そうした大衆的なレストランは気が進まないと申し出てくる人たちがあらわれた。彼らは参加者の中でも特に裕福な人たちで、日本でも普段から一本何万円もするようなワインを嗜んでいた。イタリアは何度も来ているけれど、シチリアのマニアックな場所にはなかなか行けないから、という理由での参加だったが、とにかく食事はどこへ連れていっても不満があらわになっている。せっかくシチリアまで遥々やって来たのに、ワインリストも出してくれない店では食事はしたくない、と頑ななので、彼らには急遽、自由に好きなところでご飯を食べてもらうようにした。レストランを選んだコーディネーターは「ここは私が子供の時から、何か特別なことがあれば連れてきてもらえた、自分にとって一番のレストランだったんですが」と残念そうだった。

 かたや、母を含む昭和一桁生まれチームはどのレストランで何を食べてもご満悦な様子だった。テラスのテーブルで男女6名ほど、平均年齢は70代半ばといったところだろうか。母はむしったパンを口にいれては「ああ、パンまでおいしい!」などとやたらと歓喜している。地元のテーブルワインをグラスに注ぎ合っては「地元のワインは最高」と褒め称えてゴクゴク飲みつつ、ああいい気持ち、生きててよかったなどと笑い合いながら、紫外線など気にせずに素顔を太陽に向けて日光浴をしている。ちょっと大げさ過ぎやしないかと半ば呆れはしたが、同じ旅でも、そして同じ食事でも、こうも受け取りかたが違ってくると考えさせられるものがあった。

 戦後の日本に海外の広さを伝えたジャーナリストの兼高かおるさんと対談をした時に、彼女が言っていたのは「どこで何を食べても美味しいと思えるほうが得じゃないの」という言葉だ。ご自身の看板番組の撮影で訪れたアフリカの村では、ふと目にした厨房の料理人が、客人に振る舞うための料理を煮込んでいる鍋に次から次へと鼻の中の分泌物を投じているのが目に入った。周りの人もそれを見ているのに、誰も何も言わない。歓迎の食事会でその煮込みが出されて狼狽えた兼高さんだったが、見ず知らずの土地の人と距離を狭めるには味覚の共有は必須と判断してそれを周りと同じ様にもりもりと食べたのだそうだ。

「わたくしね、わかったのよ」と私の顔をじっと見つめながら兼高さんは言った。「つまりね、あのハナクソは塩分ということだったのよ。塩が滅多に手に入らない地域だから、そのためだったということがわかったの」

 周りが歓迎ムードでわいわい美味しそうに同じものを食べているのを見ていたら、すっかり気にならなくなってしまったそうだ。

「いつまで生きるのかわからないのだから、美味しいものくらい自由に食べたい」という母の言葉や、「どこで何を食べても美味しいと思えるほうが得」という兼高かおるさんの言葉に垣間見える、味覚という幸福感への飽くなき欲求は、私たちに潜在する生命力の強さを示す指標とも言えるだろう。

 フィレンツェに留学していた若かりし頃、日本からイタリアへ戻るのにソビエト時代のモスクワで一泊トランジットをしたことがある。連れて行かれたホテルで食事に出されたのは、得たいの知れない鼠色のスープのようなものだった。スプーンで掬ってみると、小さな小骨と、溶けかけた肉の残骸が浮かんでいる。背後にイタリア人の親子連れが座っていたが「パパ、これネズミのスープ?」と問いかける子供の質問に「じゃないことを願う」と父親が苦笑いをしながら答えていた。

 かたや、私のテーブルの並びには、アフリカのどこかの国でのボランティアから戻ってきたイタリア人の若者4人組が、皿まで食べ尽くす勢いでそのスープを平らげていた。

「ああ、久々にうまいもの喰った!最高」などと嬉しそうにしている。日焼けに髭が生え放題の彼らの満足そうな顔を見ていると、なんとなくだがそのネズミ色のスープが美味しく思えてくるのだから実に不思議である。ここでの体験のような想像力による味覚の操作は、浴槽の無い家ばかりに暮らし続けてきたことで極度の入浴枯渇感に囚われていた私が、お風呂に入っている老人たちの絵を描いていると疑似入浴をしているような感覚になり、その後お風呂漫画を描くきっかけにもなったと言える。

 うちの子供は友人と日本のとある山に登山に出かけた際に、山麓のコンビニで昼時に食べようと思って買ったおにぎりがカチカチに凍ってしまっていたことがあったそうだ。しかし、偶然友人がカップ麺を一つだけ持っていたので、雪を溶かし、それを沸かして作ったカップ麺を二人で分け合ったのだという。息子によれば「あんなに美味しいものがこの世にあるのかと思ったくらい、素晴らしい味だった」のだそうだ。家に戻ってから同じカップ麺を食べてあの時の感動が蘇ることはなかったそうだが、当然だろう。人間にとっての美味しさというのは、味覚だけではなく、視覚や聴覚など、あらゆる感覚がグルーヴすることで作られるものなのだ。我々の持ち前の想像力が刺激され、稼働することによって生まれてくるものなのである。

 この世界では全員一致で美味しいものなど存在しない。同種族の人間であっても、それぞれどんな生き方をしてきたのか、そしてどんな感性の持ち主なのかによって美味しさの沸点も概念も違う。それを踏まえると、味覚というのはどこまでも自由だということだ。人間の歴史において食欲と味覚に想像力の自由が常に許されてきたことを思うと、社会で何が起こっていようと、どんな不条理が発生しようと、まだ何とかやっていけそうな気がするというものである。味覚の喜びというのは、この世を生き抜く私たちの魂にとって、自由を謳歌する頼もしい味方なのである。

2023.05

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。

1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。

2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。

著書に『国境のない生き方』(小学館)『男性論』『ヴィオラ母さん』(文春新書)『パスタ嫌い』(新潮社)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)『オリンピアキュクロス』(集英社)など多数。