食のエッセイ

世界を席巻するPizza[後編]

<前編を読む>

 ヴィチェンツァでのベビーシッター期間が終わり、フィレンツェに移り住んでからの私は、これも散々あちこちに書いていることだが、貧乏を極めたものだった。そもそも経済生産性の希薄な絵画などという道を選んだ時点で貧乏は必須なわけだが、間も無くできた彼氏も音楽院で作曲、大学で文学、自称詩人という、資本主義世界において全く救いの無い次元を生きる人だった為、金欠と空腹が生活のデフォルトだった。

 時々日本からイタリアへ商品の買い付けにくる貿易商の取引の通訳のアルバイトをしていた頃は、バブルの煽りで仕事の量も増え、家のライフラインが止められるような惨めな状況からは脱却できていたが、プライドばかり高い詩人のほうは何をしても立ち行く気配がなく、結局どんなに稼いでもゆとりのある暮らしの実現には程遠かった。そんな私たちにとってご馳走だったのが、街中で売られている切り売りのピッツァだった。切り売りピッツァは計り売りなので、重さと具材で値段が変わるが、懇意にしていた店の親父さんは私たちの貧しさに見かねて、いつも何某かサービスしてくれていた。値段を安くしてくれることもあれば、コカコーラをおまけにくれることもある。閉店間際に行けば、売れ残ったピッツァをおまけに付けてくれることもあった。この親父さんも若かりし頃にシチリアかカラブリアから出稼ぎに来て、そのままフィレンツェに居付いてしまった人だった。観光客相手の商売をあれこれ考えたところ、ピッツァであれば元値がそれほどかからないということで、思い切ってその店を開いたのだという。

 たしかに、ピッツァは生地を捏ねるための若干の体力を要する以外、調理法自体は至って簡単だし、作る回数を重ねることでコツを得て美味しくなっていく、というタイプの料理である。貧乏話の続きになるが、その後フィレンツェの都市部を離れてしばらく暮らしていた田舎のアパートの上階に、やはりシチリアから移住をしてきた大工の一家が暮らしていた。子供も孫も一緒に暮らす総勢6人ほどの大家族だったが、この家のお母さんはとにかくよくピッツァを焼く人で、その際には必ず階下に暮らす私たちの分まで用意をしてくれるという芯から親切な人だった。その家を訪ねているうちに私も彼女からシチリア風(厳密にはパレルモ風というらしいが)の生地の厚いピッツァの作り方を教わり、それがその後しばらく続く私と詩人の貧乏どん底暮らしをずっと支えていくことになった。

 小麦粉とドライイースト、そして塩とオリーブオイルに水があれば生地はできる。その上に乗せる具材によって料理に掛かるコストは変動するが、トマトにモッツァレラとバジリコを乗せたオーソドックスなマルゲリータであれば、数百円で数人前が作れてしまう。かつて北海道のローカルテレビで料理を紹介する番組でピッツァの作り方をこうした話をしながらお披露目したところ、地元のピッツァ店から「あんまり食材にいくらかかったとか言わないでほしい」というクレームが来たこともあったが、ピッツァが安価な料理であることは事実なのだから仕方がない。

 今のようなトマトソースの乗ったピッツァという形が作られたのは16世紀に遡るのだそうだが、原型とされる、要するに上に具材が乗っかっていないシンプルなパンとしてのピッツァの歴史は新石器時代まで遡る。その後メソポタミアでは粉にした小麦を水で練って焼いたパンのようなものが常用食となり、古代エジプト時代にはそのタネを熱した石に付着させて焼くという手法が出来上がった。

 古代ローマの詩人ウェルギリウスの作品では、この平たいパンに食材を乗せて皿代わりにして食べるという描写があるが、それこそまさに現代のピッツァの走りと捉えてもいいだろう。現在でも中央アジアや中東などではこの手法で平たいパンを焼いている種族がいるし、ピタと呼ばれるトルコやギリシャで食されている中に具材を詰める袋状の丸く平たいパンも古代ピッツァの系譜を継いでいる。インドのナンも言ってみればかなり原始的な手法で焼かれている古代ピッツァの一種だと言えるだろう。

 そんな西洋文化圏の食べ物であるピッツァが日本で市民権を持つようになったのは、戦後になってからだ。厳密に言えば、日本の地域の中で最もピッツァが高い普及率をみせたのは米軍の影響を食文化に色濃く受けた沖縄だが、おしゃれな、いわゆる“ピッツェリア”と呼称されるような店は、もと進駐軍のイタリア系アメリカ人が1954年に六本木で開店した「ニコラス」が日本で最初だった。オリンピックが開催された1964年には冷凍ピッツァがアメリカから輸入されるようになり、現在のような宅配ピッツァの普及はかなり最近のことで1985年に始まったそうだ。

 かつて駐日イタリア大使が「日本人が作るナポリピッツァが美味しくて驚いた」と言っていたことがあったが、食文化への外交性という意味では世界ナンバーワンと言っていい日本の職人はピッツァ作りにしても容赦がない。ピッツァ職人の世界コンクールにおいて日本人の職人が入賞したりグランプリを獲得するのも、今や全く珍しいことではなくなってきている。イタリアの人の多くはそれでも自国の食事は自分たちの国でこそ一番のものが食べられるという信念を抱いているが、節操の無い我が家の夫などは「日本のイタリア料理は世界で最高だね」などと平気で口にする。そして日本へ来ると必ず嬉々としてピッツァを食べにいく。

 世界のどの地域でも受け入れられているB級グルメとして、ピッツァを超えられるものが果たしてあるのか、今ここまでみっちりピッツァの話を綴ってきた私の頭ではもう他に何も思い浮かばない。麺類なんていうのも歴史は深いが、ピッツァはどこのどんな地域のどんな種族でも口にして嫌がる人はおそらくそれほどいないだろう。

 ここまで一気にピッツァへの思いを綴ってきた私だが、本音を言えば、ふだんあまりピッツァを食べたいと思うことは無い。パスタと同じく、苦しい時代に安価だからと死ぬほど食べまくった料理が残すトラウマというのはなかなか払拭されないものである。今でもシチリア家族に教わったピッツァは作れるはずだが、まだ意欲が稼働しない。どんなことにおいても、人生には加減というものが大切なのである。

2023.03

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。

1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。

2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。

著書に『国境のない生き方』(小学館)『男性論』『ヴィオラ母さん』(文春新書)『パスタ嫌い』(新潮社)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)『オリンピアキュクロス』(集英社)など多数。