食のエッセイ

世界を席巻するPizza[前編]

 方々で語っていることだが、私がイタリアへ留学したのは自分の意思によるものではない。イタリアには特化した好奇心も興味もなかったのに、思いがけない展開によって気がついたらイタリアで絵画を学ぶという顛末になっていた。イタリアに到着してから美術学校に入学するまでの間についての詳細はインタビューやエッセイでは端折りがちになるが、今回のテーマであるピッツァを語る上でどうしてもこの時期を語る必要があるので、あえて振り返ってみることにする。

 夏にローマに到着してからフィレンツェの美術学校に入学するまでの約3ヶ月の間、私は夫の祖父にあたるマルコという老人のはからいで、北部ヴェネト州の都市ヴィチェンツァに暮らす医者夫婦の家に住み込み、ベビーシッターをしながら地元の画塾に通っていた。

 今思えば、マルコ爺さんとしては長い夏休みを利用して、日本からやってきた私にイタリアの暮らしやイタリア語に慣れてもらうためのやりくりだったのかもしれないが、当時こちらは高校で教わる程度の英語しかできず、イタリア語となれば一言たりとも喋れなかったので、なぜ突然見ず知らずの人様の家に赤子の子守として住み込むことになったのかよくわからなかった。ただ、子供の頃から「世の中はそもそも不条理にできている。とにかく郷に入っては郷に従え、深く考えずに前に進め」という昭和一桁生まれの母の教育を受けてきたこともあり、その状況の流れには抗うことはしなかった。

 そもそも、イタリアと言う国に憧れや理想があったわけではないから、どんな事が起きようとも、人生は所詮こんなもんだと思えば諦めもついた。腑に落ちることなど何もなかったが、きっとこんなおかしな成り行きにも意味があることをそのうち知る日が来るのだろうと自分を説得しながら、毎日生後6ヶ月の赤ん坊のオシメを取り替えつつ、貧しい国からやってきた移民の人たちと同じような心地で過ごしていたのだった。

 ヴィチェンツァには米国の駐留基地があり、私が週に3回通っていた画塾にひとり、その基地に所属する軍人の妻が通っていた。画塾に入ったばかりの私は英語が喋れたことでこの夫人と仲良くなり、週末になると彼女の家族の家に招かれることが増えていった。ここのご主人の先祖は南イタリア、夫人も父親がイタリア人の家系だということで、自分たちにルーツのあるイタリアは馴染みやすいのだと振る舞われる食事もイタリア料理が多かった。中でもご主人の先祖伝承という自家製ピッツァは夫婦の子供達も大好物なので、日曜日になればご主人自ら作っているということだった。

 ご主人のピッツァは丸い形状をしていなかった。オーブンに入れる四角いトレーに生地を隈なく敷き詰め、そこにトマトソースとモッツァレラを乗せて焼く。焼き上がったピッツァはナイフで四角く切ってそれぞれが皿に取り分ける。イタリアの街中で見かける切り売りピッツァと要は同じである。日曜のランチを終えたあと、作り過ぎたからと渡されたその四角いピッツァを持ち帰り、夕食の際に医師夫妻にも食べてもらったところ「いかにもアメリカのピッツァって感じね」という感想が戻ってきた。まだそれほどイタリアのピッツァを食べた経験が無い私には、双方の違いを比較することができない。

 何がどう違うのかと詳しく聞いてみると、アメリカのピッツァはだいたい生地が厚くて食べ応えがあり、腹持ちを考慮して作られているシチリアなど南部が由来だということだった。貧しい南部ではグルメな北部と違ってお腹を膨らませる必要があるから生地がこんなふうに厚くなるのよ、と話す医師夫人の言葉から、私は初めてイタリアの南部と北部に蔓延る経済格差を知ることになった。

 後日その話の流れから、私はこの医師夫妻に連れられて近所のピッツェリアへ出向き、彼らの言うところの経済的に裕福な北部のピッツァなるものを食べることになった。テーブルに運ばれてきたのは焼く際にできた気泡に焦げ目が付いた薄いパリパリの生地に、パルマの熟成生ハムとカンパニア州の水牛のモッツァレラがふんだんに盛り付けられた、見るからにグルメなピッツァだった。食べ方も、手に持ってそのまま頬張るアメリカ人の軍人の家とは違って、最初はナイフとフォークをつかって中心部から切り分けて、具の乗っている部分を先に食べる。夫人の皿には生地の縁だけが残され、それらが最後まで食されることはなかった。「1枚丸ごと食べるとお腹いっぱいになっちゃうから縁は残すのよ」ということだった。南部の生地の厚いピッツァが腹持ちの為だというのなら、たしかにこの縁を残す食べ方は贅沢過ぎる。

 今でこそこうした薄生地のグルメ系ピッツァはイタリア中どころか世界でも当たり前になっているが、少なくとも1980年代初期の日本で食べられるピッツァは概ねアメリカ系の、パン生地の比較的厚いものだった。

 アメリカのピッツァが南部系なのは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてアメリカへ移民として入っていった多くのイタリア人たちがシチリアやカラブリア、ナポリといった南部の出身者たちだからだ。特にイタリア移民の多かったニューヨークやシカゴ、サンフランシスコといった都市で発展していったリトルイタリーなどの地域を中心に、ピッツァを出す店が増えていった。アメリカで最初にピッツァ屋を開いたのはNYに移民したナポリ人のジェンナーロ・ロンバルディ氏による“ロンバルディーズ”だが、現在も孫がこの店の経営を引き継いでいるそうだ。

 この店ではかつて、一律5セントのピッツァを買えない貧乏な人には、出せるだけの金額で対応していたという。確かに食べごたえのある南部のピッツァを一切れ食べておけば腹持ちがするので、ピッツァはアメリカにおけるイタリア移民を支え続けてきたかけがえのない食べ物だった。そして今でも、ピッツァはファーストフードの代名詞として、イタリアと限らず世界中の人々の空腹をお手頃な値段と気軽な美味しさで満たしている。

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2023.01

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。

1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。

2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。

著書に『国境のない生き方』(小学館)『男性論』『ヴィオラ母さん』(文春新書)『パスタ嫌い』(新潮社)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)『オリンピアキュクロス』(集英社)など多数。