食のエッセイ

思い出のアップルパイ

 湘南の裕福な家に生まれ、通っていた地元のミッションスクールにはばあやの送り迎えつき、しかも遊ぶ友達まで決められていたという家柄の育ちの母にとって、料理は自分で作るものではなかったらしい。それでも日本の女性たるもの、育ちがどうであれ、料理くらいはどこかで学ぶはずだと私も思うのだが、母のまた母もお育ちが宜しく、明治生まれでありながらバイオリンが上手な上、茶道もお花も嗜むのに、料理だけはしない人だった。

 戦時中、それまで暮らしていた鵠沼の家は軍隊の寮として接収され、戦後は池袋の小さな一軒家に引っ越した一家はそれまでの悠長な暮らしを続けられなくなった。その頃から祖母は料理を頑張るようになったというが、私が幼い頃、東京の実家には池袋時代から世話になっていた青森出身のお手伝いさんが同居しており、彼女が家事の全てを手がけていたので、祖母が率先して家で料理をしているのを見た記憶はない。

 そんな母親を持ってしまえば、娘も当然料理は自分がするものではないと信じ込んで育ってしまうし、そのまた娘も、経済状況がどうであれ、料理は食べる方が優先順位という考え方になってしまうのである。

 祖母から、自分と同じくあくまで花嫁修行の一環としてバイオリンを習わされた母だったが、戦乱の不穏な日々を音楽に救ってもらえたことから、プロの演奏家を志すようになった。女が芸で身を立てるなどけしからん、と両親から怒鳴り散らかされるも、半ば勘当のようなかたちで当時札幌に設立されたばかりの交響楽団に入団するため、自分とは縁もゆかりもない北海道へ移り住んだ。

 その後現地の同業者と結婚をするも間も無く死別、私が生まれた頃には明日の食料にも事欠くシングルマザーのオーケストラのヴィオラ奏者として、喧嘩別れした親に縋ることもなく生きていた頑固者の母だが、流石に北海道で暮らすようになってからの自活は必至だった。

 数年前、母の家の整理をしていたら、私が一歳になったころに、当時預けられていた保育園の保母さんと母が交わしていた交換日記が見つかった。そこには音楽一本で食べていくのがいかに大変なことか、そして私がまだ一歳にも満たないのに大食漢で困り果ててしまった、というようなことが綴られている。離乳食として与えた味噌汁をガブガブ飲み込む私を母は日記上で「ガブ子」と呼んでいる。

 母はオーケストラから支給される僅かな月給で、そんな大食らいの娘を抱えながら食べていく工夫をしていかなければならなかったわけだが、彼女のそんな暮らしの絶大な支えとなっていたのが『暮しの手帖』という雑誌だった。

 祖母の代から読み継がれている、大量の『暮しの手帖』が今でも押し入れにぎっしり収納されているが、1960年から1970年代あたりのものを取り出してみると、余白に母の字による書き込みがあったり、しおりが挟まっていたりと熟読の度合いが計り知れる。

 『暮しの手帖』の世界観にのめり込んでいた母の生活のファクターは、概ねこの雑誌をベースにしたものとなっていったが、特に彼女が頼りにしていたのが料理のページだった。

 『暮しの手帖』は戦後の日本の有様を俯瞰するのが特徴の雑誌だが、日本が猛烈な速度で経済成長し始めるとこの雑誌の姿勢もどんどん厳しく辛辣になっていく。

 利便性を掲げる画期的な電気製品が発売されるようになれば、それらをことごとくテストして欠点を暴き出し、「こんなものは買う必要などない」と容赦無くジャッジする。社会の既成概念や同調圧力に対して常に疑念を抱いていた花森安治という特異な人物が編集長を務めていた故の方向性だと言える。そういえば数年前、この雑誌の創設者である大橋鎭子や花森安治を描いた朝ドラが放映されていたので、ご存知の方もきっと多いとは思うが、この雑誌のそうした客観的思想に母もすっかり傾倒していたらしい。

 だから、食べ物にしても、販売促進ばかりを意識した、保存料や着色料がふんだんに使われているようなものには警戒心を払っていたし、原価よりも圧倒的に高い値段で売っている食品に対しても懐疑心をあらわにしていた。

 適正価格ではない食品といえば、ひとつ思い出したことがある。

 ある日、就学前の私と妹を神社のお祭りに連れていった母は、縁日に立ち並ぶ食べ物の屋台に気を取られそうになる娘たちに「あんなの食べたらお腹がいたくなるんだからね!あんなのは高いだけで美味しくもなんとも無いのよ!」といった言葉を浴びせかけ、子供心に芽生えた邪道な欲求を払拭させようと必死になっていた。しかし、途中で色とりどりのビニール袋に入った綿菓子の屋台が目に入った途端、事態は面倒なことになった。

 何せわたしたち子供にとって、当時テレビで流行っていたアニメや可愛いキャラクターがプリントされた袋は魅惑的でたまらなかったし、ふわふわの雲のような見た目もさることながら、あたりに漂う甘い砂糖の香りも強烈だった。頼むから、どんなことでもするから、お願いだからあれだけは買ってくれまいか、と強請ってみれば「10円くらいの原価のものをあんなに高い値段で売りつけて馬鹿馬鹿しい」と取り付く島もない。妹はついに「欲しいよう」と泣き出す始末、私も「せっかくのお祭りなのに」などと呟きながら、ふてぶてしくその場にしゃがみ込んでしまった。周りから鋭い目線攻撃を浴び、根負けした母は、しぶしぶ当時ブームだったパンダが描かれたピンクの袋をひとつ買ってくれた。「どれだけ邪道な食べ物なのか、自分たちで確かめてみなさい!」と非難する母の見ている前で、袋から取り出した綿菓子が絡み付いている割り箸の所有権をめぐって、泣き止んだ妹と私で取り合いとなり、綿菓子を思わず地面に落としてしまうという悲劇が発生した。私と妹は呆然とそこに立ち尽くした。

「落ちても食べなさい」と母は怒りを抑制させた声でそう言って私たちを睨みつけた。「いいからさっさと食べなさい」

 私と妹は黙って落ちた綿菓子を拾うと、表面に付着した土やゴミを大雑把に取り除き、何事もなかったふりを装って口にした。雨上がりの湿った土も、口の中に入れてしまえば気にならなかった。それよりも、綿菓子のふわふわな感触が夢のようで、母にどんなに非難されようとも、多少ゴミがついていようとも、何ものにも代えられない達成感に浸った。(余談だが、数年前の健康診断で自分の胃にピロリ菌が湧いているのがわかったとき、医者から「子供の頃に口にしたものにバイ菌が湧いていたりするとそれが原因になっている場合も」という説明を受けた途端、すぐに脳裏に浮かんだのが、この落とした綿菓子である。ちなみに妹もやはり自分の胃にピロリ菌が湧いているのを知った途端、あの縁日を思い出したという。本当かどうか知らないが、菌はすっかり除去したので何の後ろめたさもない)

 母はそんなわけで、市販されているようなお菓子や飲み物に対して全く気を許すことがなく、甘いものが食べたい、パンが食べたいといえば、自分で手作りしたものでないと、子供に食べさせようとはしなかった。1ヶ月のうちに休みが3日あるかないかというほど忙しいくせに、時間を捻出しては取り憑かれたように手作りのお菓子やパンに固執していた。

 私が小学生だったころ、母の流行りはアップルパイだった。時間があれば、これでもか、というくらいアップルパイを焼いていた。私が今もアップルパイが苦手なのは、おそらくあの頃に一生分のアップルパイを食べたからだと思っている。留守をしなければならない時も学校から戻ってくると、テーブルの上に大量のアップルパイが置かれていたりする。ついにはうちに遊びにくる子供ですら「またこれなの、マリちゃんちってこれしかないの」と呆れていたほどだった。

 アップルパイに飽きた後は、揚げドーナツがつづき、その後は蒸しプリンだった。干し葡萄入りの蒸しパンというのもあったし、ロールパンに関しては大量に焼いては隣近所にも配り歩いていた。そして、それらのレシピは言うまでもなく、全て『暮しの手帖』で紹介されていたものである。

「外のお菓子屋で売っているのよりずっと美味しいでしょ!?」と母は自分の作ったお菓子やパンを自画自賛し、『暮しの手帖』のレシピは素晴らしいと絶賛しまくっていたが、私たちは母が演奏会でいない時は、なけなしのお小遣いで、近所の食料品店で周りの友達が食べているのと同じようなお菓子を調達して食べていた。アイスクリームや飲み物も思い切り着色料が用いられているのを選び、妹と二人で赤や緑色に染まったベロを見せて笑い合った。やっと自分たちも世俗の世界に足を踏み入れることができて、本当に幸せだった。と同時に、自分たちをアップルパイ地獄に陥れた『暮しの手帖』という雑誌が恨めしくてならなかった。

 しかし、それから10年ほど経ち、単身で始めたイタリアでの留学生活で自炊をしなければならなかった私が頼りにしていたのは、母から託された『暮しの手帖』に記載されている料理のレシピだった。

 当時の『暮しの手帖』には、母が実践していたような添加物を一切使わない自家製のパンやお菓子の作り方だけではなく、高級ホテルやレストラン、それに高級割烹の料理人が紹介する料理が写真入りで掲載されていて、それが結構役に立ってくれたのである。

 日本の食材が手に入らなくても、外国料理であればイタリアでも実践可能だし、しかもどれも簡単にできるものばかりだった。あの頃自分が作った『暮しの手帖』流の料理は今でも覚えているが、煩悩に翻弄されない質素かつ知的な暮らしというものだけではなく、掛け値のない食文化の品格を惑わず提示しているところなど、この雑誌が母の心を鷲掴みにしていたのも今となっては至極納得がいく。

 高度成長期の勢いに煽られ、食に対する横柄で粗雑な捉え方が膨張する中で、『暮しの手帖』で紹介されていた帝国ホテルのポタージュスープや吉兆のおばんざいの立ち位置は、その数ページ先で紹介されている自家製のアップルパイとなんら変わりはないのである。

 あれからバブルだ不景気だと浮き沈みが繰り返されてきた時代の流れの中で、世の人々の舌はあの頃と比べて確実に肥えていった。東京は世界で最もミシュランの星付きが多い美食都市と称されるようにもなった。そして何より驚くべきことは、世界のありとあらゆる地域の食事を楽しむことのできる今日の日本では、少なくとも私は心底から落胆するほど不味いものにはなかなか出会わなくなった。中華やフレンチやイタリア料理もフランス風のパンやお菓子も、どんな店のものであろうと、正直現地で食べるものよりよほど美味しいと感じさせられるものばかりで、驚かされる。日本における食文化がここまでハイグレードなものに築き上げられた、その背景には間違いなく、日本人の勤勉さと固執性が関わっているのだろう。

 なのだけど、私はふとしたときに経済的背景を払拭した母の『暮しの手帖』料理のあれこれを思い出すことがある。音楽業を全うしつつも必死で子育てをしていた母だが、あのマンネリのアップルパイや揚げドーナツには、生活が苦しかろうと食事に対するリスペクトや意識までは飲み込まれまいとする、強固な意志が込められていたのだろうと思う。どんなに生活が苦しかろうと、音楽という道を選んで突き進む母のプライドと、彼女の作る『暮しの手帖』のお菓子や料理は、確実にシンクロしていたのだ。

 今となっては、あの懐かしい味をまた口にしたい、今ならきっと美味しく食べられる、などという素敵なオチにしたいところだが、残念ながらそうはいかない。正直、それくらい母のアップルパイは私にとって強烈なトラウマになっているが、今の自分を作り上げた大切な食べ物のひとつであることは間違いない。

2022.05

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。

1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。

2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。

著書に『スティーブ・ジョブズ』(ウォルター・アイザックソン原作)『プリニウス』(とり・みきと共著)『オリンピア・キュクロス』『国境のない生き方』『ヴィオラ母さん』『パスタぎらい』など多数。最新刊は息子との海外移動の記録を綴った『ムスコ物語』(幻冬舎)。