食のエッセイ

素麺、シンプルななりをした手強いやつ

 もうずいぶん前のことだが、イタリアの夫の実家で「日本の食事をしてみたい」という姑のために、素麺を茹でたことがある。和食が食べたいという外国人に素麺は無いだろう、と思われる方もいるかもしれないが、17歳から海外暮らしの私には和食を上手に料理できるスキルがない。日本の食材も簡単に手に入るわけではないから、やむをえず日本に帰国した際に持って帰ってきた、なけなしの素麺を振る舞うしかなかったのである。

「これ、カペッリーニじゃないの。へえ、日本にもあるのね、カペッリーニ」

 沸騰する鍋の中を覗き込んだ姑が呟いた言葉がまずそれだった。あっという間に茹であがった素麺をザルに入れて冷やすと「あらだめよ、パスタを水で洗ったりしちゃ!」と慌てる姑に「いや、これスパゲッティじゃないんで」と、素麺がイタリアのパスタとは違うことを説明した。「へえ」と訝しげな視線を麺を皿に取り分ける私の手にした箸の先に据えていた姑に「お母さん、そもそもスパゲッティはマルコ・ポーロが中国から持ってきたって話、知らないの」と当時高校生だった義妹が傍から口を挟んだ。長い麺はもともと東洋のものなのよ、としたり顔の義妹の蘊蓄を耳にしながら、私自身、素麺のルーツをよく知らないことに気がついた。ラーメンならズバリ中国由来だと言い切れても、果たして素麺は一体いつどこの誰が作り始めたものなのか、そんなことを考えたことなど人生で一度もなかった。

 義妹に「この麺はきっとマルコ・ポーロとはあまり関係ないと思う」と言いかけるが、またそこから長い論議になるのも面倒なので黙っていることにした。ナイフとフォークがセッティングされたテーブルの中心に大皿に盛りつけた素麺を運んで、希釈した麺つゆの入った器をそれぞれに配り、見てください、素麺はこうして食べるんですと箸で掬い上げた一口分の麺をつゆに浸してズズズとすすり上げて見せた。想像通りテーブルについていた家族全員が固まった表情で私の口元を見つめていた。

「ヨーロッパでは下品だとされていますが、日本においては、麺というものは、こうしてすすり上げて食べるのです」と説明をするも、「そんな空気を飲み込むような食べ方はとてもできないわ」と姑は呆れたように、フォークに巻きつけた素麺を麺つゆに浸して静かに口に運んだ。そして神妙な顔で咀嚼をしながら「味がしないわ。あんた、塩を入れ忘れてるわよ」と私に指摘した。周りの家族も皆どれどれと素麺を口に入れ「あ、本当」と声を漏らした。

「あのう、素麺というのはですね、塩を入れて茹でるものではないんです」

 何でもかんでも自分たちの調理法を世界の料理の基準と捉えるのはやめてくれませんか!?と、抗いたくなる衝動を抑えながら私は静かに言った。「素麺はネタを練る段階で塩を入れていますから、お湯に塩は入れなくていいんです。それに、日本では素麺だけではなく、他の麺類も塩を入れては茹でませんし、例えば白米も塩を入れては調理しません。塩を入れずに、素材そのものの味を認識するのです」

「さすが。日本では味覚にもZENのスピリットを稼働させているわけだね」と舅が深く感心したように頷き、周りも「ZENか。なるほどねえ」と納得している。

 結局、素麺はイタリア家族には不評だった。「日本の麺には味がない」と結論付けている姑に対し、素麺は夏の間食欲が湧かない時に食べるものであって、これが代表的な和食ということではないと伝えた。そもそも私だって、子供の頃は素麺が苦手だった。夏の時期、散々外で遊んでお腹を空かせて家に帰るも、食卓の上にこの白い麺がザルに盛り付けられているのを見ると「えーっ、素麺かあ」としみじみがっかりしたものだった。母だけが「夏はやっぱり素麺ね」と美味しそうな顔で麺を啜っていたが、大人が素麺を嬉しそうに食せる意味が全く理解できなかった。なので「味がない!」と騒いでいたイタリア家族のリアクションも、理解できなかったわけではない。

 そう考えると、素麺は蕎麦やうどんとも違って、味覚の熟練度や胃袋の経験値が問われる食べ物だと言えるのではないだろうか。舅はZEN的と括ったが、確かにアジア諸国にも素麺に近い麺類はいくつもあるのに、ここまであっさりとした食べ方はされていない。素麺がこれほどシンプルである理由には日本の風土や歴史が無関係ではないはずだ。

 歴史を辿ると素麺は中国が発祥のものらしいが、奈良時代に日本に伝来した際には「索餅」という名前の菓子だったという説がある。紀元前9000ー7000年前からメソポタミアで栽培されるようになった小麦はそのまま食するのが適さない穀類ということで、水で練ったネタを固めてパンにしたり、すいとんのような加工がなされていたそうだが、中国の青海省で見つかったこの世で一番古い麺としての形状の遺物は紀元前5世紀の、素材は小麦ではなく粟で作られたものだそうだ。ついでに調べてみると、中央アジアで今も普及している「ラグマン」という麺もルーツは古く、これが後にラーメンとして日本で独自の進化を遂げることになる。だとするとやはりイタリアのスパゲッティがマルコ・ポーロによって東方から西方にもたらされたかもしれない説も信憑性を帯びるが、数年前、エトルリア時代の遺跡から2400年前に製造されたとする製麺機具が発見されたそうだ。しかも古代ローマ時代の文献には、当時既に「ラガーナ」と呼ばれる麺類が食べられていたという記録が記されている。「ラガーナ」と「ラグマン」。音の響き的にも無関係ではなさそうだが、だとするとマルコ・ポーロのもっと前の時代から麺は大陸経由で伝来していたということになる。

 日本へは先述したように、奈良時代に索餅という油で揚げた菓子として伝えられたものが時間をかけて今の素麺の原型となるものに変化したとされているが、小麦粉のネタを練りながら延ばし、最後には棒に掛けて更に細長くするという、いわゆる手延べ素麺の製法は中国では北宋の時代に行われていたというから、となると日本での手延べ素麺の手法のルーツが気になってくる。単に素麺と言ってもその他の麺類同様に、その歴史はなかなか深い。

 イタリア家族に素麺を振る舞ったときに、こうした知識が既にあったら姑の西洋中心主義的な食べ物への見解に対してあれこれ口出しができたはずなのだが、コロナ禍でイタリアへ戻らなくなって既に1年と9ヶ月、今更20年以上も前に食べさせた素麺の話を引っ張り出してきたところで覚えているかどうかも定かではない。

 なんてことを考えていたら、この夏人知れず日本に来ていた夫から「流し素麺」について書かれた英語の記事がメールで送られてきた。東京のマンスリーマンションで2週間の自主隔離が終わったとき、近所のコンビニで素麺を買って食べたのだという。あまりにも暑くて、あっさりしたものが食べたいと思って何かないかと探したら「かつてマリが茹でてくれた味の無い麺が売ってたから買ってみたら美味しかった。こういう気候にぴったりの麺だと思ったし、消化に負担がかからないのが素晴らしかった」のだそうだ。イタリアよりもはるかに凌ぎにくい湿気の多い夏に辟易してもいたのだろうが、私より14歳若いとはいえ、夫の胃腸もそれなりに年を取ったという証だろう。

 夫はその記事に書かれている、長い竹筒から水と一緒に流れてくる素麺を箸でキャッチして食べる流しそうめんに「どうして麺を流さなきゃいけないの、面白すぎる」とウケていたが、2014年に実施された「第1回流しそうめん世界大会」では、屋外の階段に設えた長さ14mの竹筒に業務用高圧洗浄機で「リニア麺」という麺を流したところ、時速40kmを達成して世界新記録を更新したという記述が出てきて私もびっくりした。その前の年、京都駅で実施された大会においては「世界流しそうめん協会」が樹立した記録がそれよりも早いものだったらしい。そうめんを流す距離の長さとしては、奈良で成功した全長3317.7mというのが世界記録らしいが、まさか流しそうめんに世界規模の大会が存在することも、流しそうめん協会というものがあることも私は知らなかった。素麺の世界は思っていた以上に深く広い。

 ちなみにネットで「流し素麺」を検索してみると、自宅用の“流しそうめん機”なるものがいくつもヒットした。シンプルな回転式のもの、氷山が象られたケースにペンギンが添えられているもの、プールなどの施設で見かけるような派手なスライダー式のもの。それぞれにレビューの星もたくさんついているところを見ると、今や流しそうめん装置は一般家庭においても別に珍しいものでもなんでもないらしい。

 次回イタリアへ戻るときにはぜひこのスライダー式のやつを持って帰って姑を驚かせてみたいという野望も芽生えるが、イタリア家族に流しそうめん装置を洒落として理解してもらうのは如何せん難しそうだ。このような装置が作られた意味やその重要性をめぐってまたZENスピリットはどうしただのこうしただのと面倒な論議が交わされるのが容易に思い浮かぶ。とりあえずは日本にいる自分用に、シンプルな回転式のやつをひとつ購入してみることにした。

 素朴の“素”を用いた麺とは言えど、蕎麦やうどんと比べて意外と型破りな素麺の実態は、決して一筋縄ではいかないのである。

2021.08

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。

1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。

2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。

著書に『国境のない生き方』(小学館)『男性論』『ヴィオラ母さん』(文春新書)『パスタ嫌い』(新潮社)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)『オリンピアキュクロス』(集英社)など多数。