食のエッセイ

スパークル飲料は人生賛歌

 3年ほど前、シャンパーニュ協会日本事務局が主催する「Champagne Joie de Vivre(生きるよろこび)賞」なるものを受賞した。その時、受賞の記念品としてフランスの、シャンパーニュ地方のいくつかの業者が生産しているシャンパンを何本も頂いて歓喜していたら、その翌年、今度は北部イタリアのベネト州周辺で生産されている「プロセッコ」というスパークリングワインのプロモーションのテスティモニアル(SNSに写真をあげて宣伝する人のことらしい)なるものに選ばれ、シャンパーニュ賞のシャンパンがまだ冷蔵庫の中に並んでいる状態のところへ、毎月北部イタリアのプロセッコ業者から試飲用の商品が送られてくるようになった。

 人生における稀有で前代未聞の発泡酒ブームが到来し、一時期東京の仕事場にはフランスやイタリアから届く発泡酒の段ボールがいくつも積み上げられ、その頃の私は毎日出し惜しみなくシャンパンやプロセッコを飲みながら過ごしていた。残り物の煮物に茹でた蕎麦を啜りながらシャンパン。冷蔵庫の中に放置されていた賞味期限切れのハムを立ったまま頬張りながらプロセッコ。今思えばなんとバチ当たりな日々であろうか。

 この文章を読みながら「腹立たしい、こん畜生」と感じている人も少なくないと思うが、20代での日々泥沼の泥を掬って頬張るようなどん底貧乏経験に免じて、どうかお許しいただきたい。だが、果たしてこれが焼酎やウイスキーだとしたら「羨ましいこん畜生」と反応する人がどれだけいるだろうか。なぜシャンパンのようなスパークリングの酒には特別感があるのか。レースの勝者、進水式、誕生日に結婚式と、祝杯としてグラスに注がれるのがシャンパンでなければならないのは何故なのか。別にそんなことどうでもいいやと片付けてしまえないのが私の性分である。

 考えてみれば酒だけではない。スパークリングといえば、こうしたシャンパンやプロセッコといったスパークリング系のワインに関わらず、サイダーやコーラのようなノンアルコールの清涼飲料もまた、むかしから気分を上げる飲み物として世に流通している。

 私が子供だった昭和の頃、コカコーラやキリンレモンのような炭酸清涼飲料水のCMは、ほとばしるような爽やかさや眩しさが炸裂し、飲めばあなたの未来はもう良いことしか起こりえない、人生万歳、自分万歳、というようなイメージのものが多かった印象がある。

 画面の中で炭酸飲料を飲んで満面の笑みをたたえながら、快活な音楽をBGMに、飛び跳ねたりはしゃいだりしているハッピーな美男美女のかつての映像を、世知辛い今のご時世によって歪められた目線であらためて見てみると、まるで何かヤバい覚醒反応が出ているのではないかと勘繰ってしまいたくなるくらいだ。もし本当にアルコールも入っていない炭酸飲料を飲んだだけであんなに有頂天になれるんだったら、世の中はきっと今とは違ったものになっていただろう。

 ちなみにスパークリングワインやスパークルウォーターのSparkleとは「煌めき」や「火花」を意味する英語だが、イタリア語だとFrizzanteという単語になり、「ちょっとばかり刺激的」というニュアンスとしても用いられることがある。飲めば体の中も泡のようにバチバチ弾ける炭酸効果に、アルコールが加わればスパークル気分が更に増す。その代表格的飲み物がビールだろうか。

 そういえば、ちょっと前までは海外の人が日本のテレビを見ていて特に印象に残るのがビールの宣伝だと何かの統計に出ていたのを思い出す。欧米では宗教的倫理の規制でそれほどお酒のCMを流せないというのもあるのかもしれないが、私のイタリア人の夫も日本のビールの宣伝を見ると、なんだかわからないけど元気になるのだと言っていたのを思い出した。

 気になって1975年から1990年代までのビールのCMを集めた動画を確認してみたら(本当に今の世の中なんでもある)、バブルという特殊な時期にも差し掛かっていたからかもしれないが、なんだかやたらとハイスペック・ハイコストなものばかりで驚いた。清涼飲料水と違って、登場人物には全体的に社会で身につけた世知辛さの質感が伴っている。だから、ビールを一口飲んだ瞬間の回復効果の説得力が半端ない。

 瓶ビールが主流だった1970年代では、まず栓がスポン!と抜ける潔い破裂音とグラスへ中身がトクトクトクと注がれる音、そしてそれを飲んだ人物の口も小鼻も全開状態になった絶頂顔のアップと「ぷはあっ」「カーッ」という勢い余った吐息。缶ビールになればプシュッと空気を破裂させるプルタブが栓に置き換わるが、飲んだ人の眉間から目に思い切り力の入った顔面穿孔全開型でビールのスパークルな喉越しを「ぷはあっ」「カーッ」と表現するスタイルは変わらない。

 夏の海。都会。雪山。戦うサラリーマンに漁師、水着の女性を見つめる男や失恋するペンギン、どんな季節のどこであろうと、ビールを口にした者はその刺激によってたちまち人生謳歌モードに入っている。凄いことである。

 アルコール度数が12%のシャンパンは私などあっという間に酔いが回るが、度数が4〜5%のビールであればほろ酔い気分になっても意識が離脱するまでにはなかなかならない。この程良さが昔から人々に愛飲され続けてきた理由だろう。なにせ人類最初の文明といわれるシュメール人が残した粘土板に楔形文字でビールの製法が記録されていたというのだから、文明の歴史はビールとともにありきと言っていい。

 シュメール人の時代はホップが用いられていたわけではないので、麦を乾燥させて粉にしたものをパンとして焼き、そこに水をかけて発酵させて作っていたそうだ。おそらくだが、飲もうと思って汲み置きしていた水の中にパンを落としてしまい、しばらく経ってからうっかりそれを口にしたところ「えっ、なにこれ。シュワシュワしていけるじゃん!」というようなことだったのではないだろうか。

 やがてビールは、その製法や販売についてかのハンムラビ法典にも法として制定されるくらい、当時の人々にとってポピュラーな飲み物になっていたようだ。ちなみに古代ギリシャ・ローマといった地中海世界でもビールの製造は試みられていたらしいが、気候風土的に北部と比べてあまり美味しいものはできなかったらしい。当時から既に文明的な飲み物であったビールよりもワインが地中海沿岸の地域でメジャーな飲み物となったのは、要するにそれらの地域では美味しい葡萄がよく育ったからである。

 イタリア北部のベネト州を中心に生産されているプロセッコはアルコール度数も7%程度なので、昼食時からグラスに軽く一杯やる人も少なくない。かくいう私も17歳で初めてイタリアで暮らし始めた最初の土地がこのベネト州だったこともあり、イタリアで最初に飲んだのもこのプロセッコだった。以来イタリアの家ではプロセッコはふだん当たり前に飲むライトなアルコール飲料とされているが、しっかり目が覚めたまま前向きかつ心地良くなれるという意味では日本のビールと同じ立場だろう。そしてこのプロセッコの歴史もまた古代ローマ時代に遡るといわれている。美食家で斬新なものが好きだったあの人たちのことを思えばその説に異論は無い。

 まあ結局のところ、ビールもプロセッコもシャンパンも、発酵によって泡が発生するような飲み物は偶然によって生まれたものなのだろうと勝手に想像しているが、シュメール人にしてみれば、もし今の時代にやってきてテレビでビールの宣伝でも見た日には、7、8千年もの時を経てなおビールが飽きない人気を誇っていることに、さぞかしびっくりするに違いない。

 ちなみに飲み物以外のスパークルな液体といえば鉱泉の炭酸水であるが、要するにスパークリングウォーターと呼ばれている鉱泉は世界中のあらゆるところから湧いており、私も日本にいる間は保温効果に優れた炭酸泉系の温泉に入りにいくことがある。そしてこの炭酸泉は飲み水、つまりソーダとして一般に流通するようになるが、古代エジプトのクレオパトラがかつてぶどう酒に真珠を溶かしたものをこの炭酸水で割って飲んでいたというから、炭酸水が飲用されていたのも相当昔からのことのようだ。

 日本では、奥会津にある大塩温泉で湧出している炭酸水は明治時代に商品化され、「芸者印・タンサンミネラルウォーター」として輸出されていた。今我々が日本でも飲めるフランスのペリエやイタリアのサン・ベネデットなどがヨーロッパ系の鉱泉炭酸水として代表的なものだが、ウィルキンソンに関しては、兵庫県の宝塚温泉近辺でこの炭酸の鉱泉を偶然発見したのが日本在住のイギリス人ウィルキンソンさんだったそうだ。ウィルキンソンさんは当時海外の賓客をもてなすための食卓水を求めていた明治政府の要望でこの炭酸水を商品化したらしい。なのでウィルキンソンは日本で生まれた日本の炭酸水なのである。

 そしてこの炭酸水に、砂糖やクエン酸を混ぜればサイダーという飲み物になる。サイダーというのは英語でリンゴ酒を意味しているが、日本ではアルコールを含まない炭酸清涼飲料を一般的にサイダーと呼称するようになったらしい。英語圏ではこうした炭酸系砂糖水に果物系の酸味をつけたものは全体的にレモンライム、またはレモネードと呼ばれているが、「ラムネ」と言うのは要するにこのレモンライムの発音が鈍ったもの。先述のウィルキンソン氏もラムネを製造していたという記録が残っているそうだ。

「テルマエ・ロマエ」でも炭酸泉は腐った酒を飲まされたルシウスの胃もたれを緩和していたし、ビールやラムネにも衝撃を受けるシーンが出てくるが、スパークリングな液体というのはこうして歴史を辿っても、何某かのかたちで人生を活性化させるきっかけになってきたことが何となく調べてみただけでもよくわかる。

 締めくくる前にスパークル飲料に関わるR18な話をひとつ。

 かつてフィレンツェで画学生をしていた私が凝っていたのが、古い絵葉書の収集だった。特に1800年代半ばから1900年代初頭の、写真よりもイラストのものが好みであちこちの蚤の市に繰り出しては古物商のスタンドでこうした絵葉書を物色してばかりいたのだが、時々見かけるのが、美しい女性が泡が噴出しているシャンパンのボトルに跨って嬉しそうにしていたり、コルクが吹っ飛んだシャンパンボトルを見て微笑んでいたり、シャンパンボトル自体にうっとり抱きついているというモチーフが描かれた絵葉書だった。
 

 たいてい景気良く栓を弾き飛ばしているシャンパンの脇には新年を祝福する文句が書いてあるので、新年の挨拶用に送られていた絵葉書だとばかり思っていたが、ある日古物商の主人から、発泡しているシャンパンボトルはエロティシズム的な比喩でもあると教えてもらった。確かに、欧州では今でも女性がボトルを持ってお酒を注ぐことは下品とされているが、それはつまりボトルそのものが男性器の象徴とされているからである。

 ボトルの口から泡が噴出し、その勢いでコルクやボトルが吹っ飛んでいるのを喜ぶ女性たちという絵柄は要するに、すごく上品に表現すれば、生命力万歳という意味をなしているのであろう。結婚式や祝い事でシャンパンのグラスを交わし、レースの勝者が発泡酒を浴びるのは、要は生産性や力強い生命力への賛辞と捉えて良いのかもしれない。

 とにもかくにも、シャンパンだろうとビールだろうと、またはサイダーやコカコーラのような清涼飲料水であろうと、グラスに注げば下から上に向かって止めどもなく発生するあの小さな泡のように、私たちを常に刺激的かつ幸せな心地にさせてくれるスパークル飲料は、様々な試練に耐えながらも前向きに進んでいこうと努める我々の人生を支えてくれる、ありがたい飲み物であることには違いない。

2021.06

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。

1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。

2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。

著書に『スティーブ・ジョブズ』(ウォルター・アイザックソン原作)『プリニウス』(とり・みきと共著)『オリンピア・キュクロス』『国境のない生き方』『ヴィオラ母さん』『パスタぎらい』など多数。最新刊は息子との海外移動の記録を綴った『ムスコ物語』(幻冬舎)。

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