食のエッセイ

お節料理か豚足か

 幼少期、年末年始は東京の母の実家で過ごすのが習慣だった。何もかもが真っ白な雪に覆い尽くされてしまう北海道の景色が、一晩寝台列車で移動しただけで樹木や家屋の屋根など色味を帯びた世界になっている、あの変化が冬の嫌いな私には嬉しかったし、祖父母と同居する叔母一家の従兄弟たちと、雪に埋もれることもない公園や空き地で遊べるのも楽しみだった。

 当時祖父母の暮らしていた家は、戦後鵠沼の家を手放した祖父が、とある文人が所有していたものを昭和30年代に買い取ったものだが、居間には古い掘り炬燵があり、縁側の片隅には従兄弟の勉強机が置かれて、廊下を渡った離れには中庭に臨む祖父の書斎があるという、典型的な当時の中流家庭向けの家だった。北海道との大事な接点だった夫に先立たれ、アウェイな心地が拭えぬまま過ごしていた彼女にとって、やはり年末には本人も一時期暮らしていたこの家に戻って羽を伸ばし、翌年へのエネルギーをチャージする必要があったのだろう。だからなのか、大晦日に祖母と叔母、そして鵠沼時代から一緒の女中さんがせっせとお節料理の準備を進めていても、母がそれを手伝っている姿を見たことがない。学校を出てからすぐに外で働き続けてきた彼女には、そもそも料理への意欲や関心がそれほど無かった。それをわかっているからなのか、彼女の母親も妹も何も口出しはしない。その代わり、従姉妹や私が元日に上げるための凧作りを手伝ってくれたり、冬休みの宿題に加勢してくれるのは頼もしかった。

 そんな実家で正月のたびに食べていたお節料理だが、実を言うとその味覚はほとんど記憶に残っていない。子供にとってあの日本古来の伝統料理は彩りや盛り付けこそ綺麗ではあっても、大しておいしいとも思えないものだったし、何せそればかりを数日間延々と食べ続けると飽きて食欲も萎えてしまう。だから雑煮や餅が出されると、お節から解放されてホッとしたものだった。その心境は母も共有していたようで、子供に向かって「お母さんはお節料理ってあまり好きじゃ無いな」と漏らし、仕事で帰省ができない正月も、家ではせいぜい伊達巻となますを普段の料理に添えるくらいで、祝いの行事を意識した特別な脚色をすることなど全くなかった。

 それがどういうわけか、60歳を過ぎてオーケストラを退職してから、熱心にお節料理を作る人になった。母曰く、かつて実家で祖母と叔母が作ったお節料理がきれいに収められていた、飛翔する鶴の蒔絵の随分古い重箱を祖母の形見として引き取ってから、お正月にはお節は作らねばならないと感じるようになったのだと言う。オーケストラでの仕事はしなくなってもバイオリンの生徒は50人に増え、しょっちゅう海外の演奏家のためのコンサートを企画したりと、以前にも増して忙しく慌ただしい人になっていたが、にもかかわらず日本における正月の食の伝統を重んじるようになったのは、遺品の重箱を使い続けねばならぬ義務感のほかにも動機があったようだ。

 イタリアでは正月は単なる休日に過ぎず、クリスマスと正月における人々の過ごし方は、日本と真逆と言っていい。クリスマスは主に家族や親族のみで過ごす、キリスト教に根付いた厳かな行事であるけれど、年越しは友人たちや大人数のパーティーで皆で大はしゃぎをする日と捉えられている。12月26日の聖ステファノの祝日が終わると、人々の様子は年末の行事に向けて一気にそわそわとし始める。街中のブティックのウィンドウには大晦日のパーティー用の大胆な服を着たマネキンが並び、方々から爆竹の弾けるけたたましい音が鳴り響く。それに驚いた犬が吠え、駐車中の車の盗難アラームが反応してうるさい警報が鳴り響く。そんな騒々しさなどお構いなしに、通りに溢れる人々の表情は新しい年の始まりに託した期待に浮かれ、食料品店ではパーティー用の食材のほか、クリスマスから引き続きパネットーネやパンドーロのような伝統菓子と、新年の瞬間に栓を開けるためのスプマンテが矢継ぎ早に売れていく。これが私の知るところの、イタリアの年末における光景だ。

 私が画学生だった頃、フィレンツェでの年越しは大抵友達やまたは直接は知らない知人のまたその知人の企画したホームパーティーで、誰だかよくわからない人とワインをしこたま飲み続け、朝まで大騒ぎをした覚えがある。北イタリアの夫の実家で毎年催されていた盛大な大晦日のパーティーでは、翌朝、居間のソファや床にどこの誰だかわからない人が何人も寝そべっているという光景を目の当たりにすることが度々あった。凍てついた外に出てみれば夜中に皆で楽しんだ花火の残骸がちらかり、台所には飲み干したワインの瓶がびっしりと並べられている。大量の皿が洗い場に積み重ねられていて、1日の午前中はまずそれを片付けることから始まるのである。

 大晦日に振舞われる料理は脂っこいものが多い。家で催すパーティーの場合、招待された客がそれぞれ料理を持ち寄ることもあるが、そのうちの何人かはザンポーネ、またはコテッキーノと呼ばれる、ひき肉の詰まった茹で豚足を持ってくる。豚の油が中のひき肉の肉汁と旨味をゼラチン状に固め、輪切りにされたのを一片も食べれば胃にずっしりと来るが、相性のいい赤ワインを飲んでいる限りいくらでも食べられる。付け合わせは、平たく丸いその形状からお金が貯まる縁起物の食材とされるレンズ豆の煮込み。それ以外にも地元名物のグラーシュと呼ばれる肉のシチューに、とうもろこし粉を練ったポレンタ、ヴェネチア風イワシのマリネにパーティーには定番のラザニア。地域の特産チーズに誰かがマスカルポーネを練って作った自家製ティラミス。

 年が明け、洗い場に溢れる皿に付着したそうした一夜の食事の形跡を目の当たりにすると、二日酔いですっかり弱り果てた胃がさらに活力を消失して萎縮する。トリマルキオという古代ローマの解放奴隷が催していた飽食の宴の描写はフェリーニも「サテュリコン」という映画で表現しているが、正月になるとキリスト教化したはずのイタリアの人々の中に滞る、古代ローマ人のDNAの気配を感じずにはいられなくなるのだった。

 私の母は、実はそんなイタリア式の正月を何度か経験している。日本の正月とは見事に方向性の違うそのしっちゃかめっちゃかな宴の有様を、最初の頃は異文化ならではの興味深い経験として楽しんでいたようだが、回を重ねるごとにどこか嫌厭するようになっていった。1年の終わりを乱痴気騒ぎ、そして新しい年の始まりをこんな食べ残しや汚れと共に始めるなんて、たまったもんじゃないわ。日本だったら作りおいたお節を食べてのんびりすればいいだけなのに、もうイタリアのお正月はたくさんよ。そんな愚痴をこぼしながら、洗い物の手伝いをしていた姿を思い出す。

 こうしたイタリアでの年末年始体験が、母が突然お節料理に熱心になり始めた理由の一つとしても考えられるような気もするが、ちなみに私の息子は祖母が一生懸命に作ってくれるお節の品々はどれも苦手だったらしく、積極的に食べようとはしなかった。そもそも、なますや昆布巻き、黒豆に栗きんとんなんてものは、ただですら現代の子供の味覚の嗜好にはほど遠く、ましてや普段外国に暮らしている子供にとってのハードルは尽く高い。儀式的な要素のつよい伝統料理というものは、おいしい、おいしくないといった、味覚を優先に捉えるものではないと知るまでには時間がかかる。果たして昨今の若者たちがそこまでしてお節料理という文化を継承していきたいものかどうか全く予測もつかない。

 普段であればクリスマスはイタリア、新年は日本の家族とともに迎える私であったが、今回はコロナ禍でどちらの家族とも一緒になれないまま、年末年始を過ごさねばならなくなった。イタリアの慌ただしい正月も、日本で迎える家族だけでの厳かさもなく、ひっそりと過ごす正月は人生で初めてのことかもしれない。そう思ったとたん、ほんのりとした寂しさとともに頭に思い浮かび上がってきたのは、イタリアの茹で豚足やレンズ豆ではなく、お節料理の黒豆や冷たい栗きんとんであり、それを台所でせっせと準備している祖母や叔母の後ろ姿だった。遠く離れた土地でがむしゃらに働く母が、家族に囲まれて普段の緊張を解し、掘り炬燵で寛いでいるのを脇からぼんやり見ていた、あの遠い時間の記憶だった。

 お腹を満たすよりも、穏やかさと安心感で胸を満たしてくれたあの懐かしいお節料理を、今こそ心ゆくまで食べたい。

2020.12

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。

1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。

2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。

著書に『スティーブ・ジョブズ』(ウォルター・アイザックソン原作)『プリニウス』(とり・みきと共著)『オリンピア・キュクロス』『国境のない生き方』『ヴィオラ母さん』『パスタぎらい』など多数。最新刊は息子との海外移動の記録を綴った『ムスコ物語』(幻冬舎)。

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