食のエッセイ

たかが飴玉されど飴玉

 “大阪のおばちゃん”と言われて頭に思い浮かぶのは、まず快活で時に豪快な話し方、アニマル柄など派手目の服、そして「アメちゃん」である。本当に大阪のおばちゃんたちは皆常にカバンの中に飴を常備していて、誰かしかに「はい、アメちゃん」と差し出してくれるのかどうかは知らないが、実際大阪やその界隈で出逢ったおばちゃんからアメちゃんを受け取ったという人を何人か知っている。

 残念ながら私はいまだに大阪のおばちゃんからアメちゃんを提供された経験は無いが、私から出会う人に持参している飴を提供することは頻繁にある。ということはつまり、気付かぬうちに私自身が“アメちゃんおばちゃん”になっていたということかもしれない。

 大阪ではないが、大人になってから一度だけ、見ず知らずの通りがかりの人にアメちゃんをもらったことがある。忘れもしない、今から26年前のフィレンツェで、私が11年付き合っていた彼氏との間にできた子供を出産したのは10月31日のことだった。

 子供を産んだはいいが、母親が外国籍でしかも未婚であることから、しかるべき場所へ行ってしかるべき手続をしてこない限り子供と一緒の退院は難しいと言われた私は、出産の2日後に歩幅5センチの足取りで、フィレンツェのシニョーリア広場にある市庁舎を目指すことにした。ちなみに、私と同じ日に出産をしたお母さんたちは、皆みるみる体力を回復させ、中にはもうさっさと赤ちゃんを抱えて普段通りの足取りで退院をしていく人までいたが、どうやら東洋人の体の勝手は違うようで、私の場合はベッドから立ち上がることさえままならない状態だった。ただ、それを病院の人に伝えても「出産は病気じゃない」だの「そんな甘えているようでは母親業は務まらない」など厳しい説教を受けるばかりなので、諦めて行動に踏み切ることにしたわけである。

 歩幅5センチというのは決して大袈裟な表現ではなく、一昨日子供を産んだ体ではどんなに頑張ってもそれくらいでしか前へ進むことができない。とりあえず大学病院のタクシー乗り場までたどり着ければ、あとはなんとかなるだろうと頑張ってみたが、病院の敷地をそんな様子で歩く私はどこの誰が見ても不具合を来している人間だった。そして、そこに近寄ってきたのがひとりのお婆さんである。

「あんた、具合がわるいのかい?」と心配そうに眉を歪めて私の顔を覗き込んできたので、
「つい一昨日子供を産んだもんで」と息も絶え絶えに答えると「あら、そうだったの」とお婆さんの態度もこれと言って驚くふうでもない。その後に彼女が革の手提げ鞄の口を開けて中から取り出したのがアメちゃんである。
「まあ、これでも舐めて元気出しなさいな」
お婆さんはそう言ってアメちゃんを私の手にぎゅっと握らせると、背中を2、3度軽く叩いて立ち去っていった。反対方向へと進んでいくお婆さんの、私よりもずっとスピード感のある足取りが羨ましかったが、とりあえず手に握らされた飴を口に入れた。アーモンドっぽい味のその飴の甘さはたちまち滋養として染みわたり、しばしその場に立ち止まってほっと息をついた。

 たかが飴の一個ではあったが、そのおかげで私は無事タクシー乗り場まで途中で倒れることもなくたどり着くことができた。もちろん状況にもよるだろうけれど、飴の糖分がもたらす効能が侮れないということを痛感させられた経験だった。

 関西人とイタリア人の何気ない相似点について日本を知るイタリア人とも話題になることがあるが、果たしてイタリアのおばちゃんたちがどれだけ飴を持参して歩いているかは不明にせよ、弱っている人に飴を上げたくなるという衝動は彼女たちにもあるようだ。今でこそコロナだ何だとそう簡単に見ず知らずの人から食べ物などは受け取れない世の中になってしまったが、日本ではタクシーを利用すると、時々飴をくれる運転手さんもいる。なぜかその大抵が黒糖系の飴なのが謎だが、あれはあれで何気に嬉しい。

 要は糖分によって血糖値を上げれば元気になる、という解釈によるものなのだろうけれど、イタリアの貧乏学生時代は確かに飴は日々の重要なエネルギー源でもあった。質感のあるお菓子が買えなくても、飴を舐めていればなんとなくそれで十分なような気持ちにもなる。

 アメちゃんが一体いつから人々の暮らしの中に普及していったのか調べてみたところ、日本国内での飴の製造の起源は神武天皇の時代にまで遡るらしい。神武天皇は紀元6世紀の時代に生きた人だが、この時代にコメなどに含まれるデンプンに麦芽の酵素を混ぜた水飴が甘味料として用いられていたのが日本における飴の起源ということになるようだ。

 一方世界において最初に飴が作られたのは紀元前6−4世紀のインドだという。インドで発祥した飴はその後ペルシアへ伝承し、そこからギリシャへと到達する。ということは、当然古代ローマへも飴文化は到達していたと思われる。ギリシャ・ローマ時代の甘味と言えば蜂蜜オンリーだったので、飴のことは「蜂無しで作る蜂蜜」という捉えられ方をしていたという。

 世界史における古代の飴についてはなかなか簡単に資料が見つからないのでそのうちじっくり調べてみたいところだが、近代までの途中経過で忘れてはならないのが「金平糖」と「有平糖」だ。これは南蛮船に乗ってやってきたポルトガル人宣教師のルイス・フロイスが信長に献上したポルトガルのコンフェイトゥとアルフェロアという砂糖菓子の日本風のアレンジだが、日本の飴の歴史を語る上では外せない。

 19世期の産業革命期になると、欧州での飴は様々なハーブなどを混入させることによって喉を潤したり、消化を促す薬として普及するようになっていった。市場における砂糖の売買が一般にも手に届くレベルになると、労働者レベルでも甘いものの摂取は容易になり、そこから嗜好品としてのキャンディの生産が始まったらしい。一方、日本の江戸ではこの頃既に飴細工を商売とする職人が現れていたから、飴文化のプロセスはそれぞれの国で独自の進化を遂げていったようである。

 嗜好品としてあらゆる人に行き渡るようになった飴ビジネスは、欧米であればテーマパークのような子供たちの集まる場所で、いわゆるカラフル(毒々しいともいう)な色の施されたペロペロキャンディとして店屋で売られ、一方日本では飴細工職人のほかに駄菓子屋などでガラス瓶に入れられた“飴玉”が販売されるようになった。

 七五三の金太郎飴が発案されたのは20世紀になってからだそうだが、あの、様々な色のついた練り飴を工夫して重ねて丸め、輪切りにすると側面がなにがしかの模様になっている元禄飴は江戸時代からあったようだ。あの元禄飴の技術は誰が思いついたのか知らないが、古代フェニキアやローマのガラス細工とどことなく似ているのが興味深い。

 飴のことを調べ始めると際限の無いことに気がついたのでそこそこにしておこうと思うが、こうした執筆の機会でも無ければ、普段飴のことなど考えることなどないだろう。身近にある様々な菓子の中でも、飴ほど主張性が控えめでさりげない菓子というのも他にはあまり思い当たらない。

 前述したように、気がつけば既にアメちゃんおばちゃん化していた私だが、実は子供の頃から飴は大好物で、それが災いして歯のトラブルは尽きずに現在に至っている。今も台所の食材を仕舞い込んでいる引き出しを開けてみると、「濃厚マンゴー」「バターボール」「濃厚苺ミルク」「俺のミルク メロン味」「男梅」「スイカキャンディー」「ミルクの王国」の、全7種類の袋が見つかった。いくらなんでも買い過ぎであるが、飴は数ある日本の菓子類の中でも特に商品開発がエネルギッシュに展開されている部類であり、製造会社のチャレンジャー度を試してみたい思いでつい買い物籠に入れてしまう。

 こうした普通にどこでも手に入る袋に入った飴に限らず、ここ数年ハマっているのが仙台の銘菓で「霜柱」という、極薄の砂糖でできたそれこそ霜柱状の飴である。人様に頂戴したのをきっかけに、最寄りのデパ地下の全国特産コーナーに時々売られているのを見ると、値段はちょっと高いがあの絶妙な食感の誘惑に負けて買ってしまう。口に入れるとパリパリふわっと溶けてなくなるあの、儚い夢のような感触は日本の飴技術がいかに高いクオリティのものなのか、毎回食べるたびに「ううむ」と感慨深い唸り声が出る。

 イタリアなど海外でも様々な飴を試してきたが、どうも日本の飴ほど美味しい!と声をあげたくなるものには出会えていない。そう考えると飴というのはクッキーやチョコレート以上に国による味付けや食感の違いが顕著なお菓子である。

 西洋では舐めていると中から突然どろっとした濃厚な果汁やクリームみたいなのが出てくる飴が多いが、私はどうもアレ系が苦手である。先述した、出産2日後にゆきずりのおばあさんからもらったのも「Rossana」という、イタリアではずいぶん古くからある飴だが、これも中から甘い蜜状のものが出てくるタイプの飴だ。日本でも私が子供の頃に発売され、ユーミンがCMでBGMを歌っていた「ソフトエクレア」という、食べていると中からどろっとしたやつが出てくる柔らかい飴があるが、あれは美味しい。なのに西洋のが苦手なのは、甘味が日本のものよりいかんせん強いからかもしれない(注・ソフトエクレアは調子に乗って食べているとミルキーと同じく歯にくっついてえらい目に合うのでそこだけ気をつけなければならない)。

 世の中では世界を知るグローバルなヤマザキさんなどと形容されることがあるが、飴という側面に関してはかなり閉塞的だとも言える。世界の飴の味を知っている人なら私に同調してくれるのではないかと思うが、そんなハードルの高い海外の飴の中でも、どうしても完食できないのが北欧で食べられている真っ黒な“サルミアッキ”である。昆虫の炒ったものも得体のしれない動物の内臓の煮込みも食べれる私が、口内滞留時間を5秒以上保てないのが、このリコリス(カンゾウ)とアンモニアを合体させた恐怖の飴である。北欧ではこのサルミアッキを幼気な子供らが美味しそうに舐めているし、イタリア人の夫までこれを「なかなか美味しいじゃん」などと言って嬉しそうに舐めている。そんな夫を見ていると、自分は遠い異国の文化圏の人と結婚をしたのだなあ、という自覚を新たにする。

 たかが飴一個といえども、こうしてあれこれ考えだすと、なかなかその世界は広いのである。これからも私は自分の人生を飴と共に歩んでいくのだろうけれど、そのうち鞄の中にサルミアッキを忍ばせ「はい、アメちゃん」などと人様に差し出す卑屈で怖いアメちゃんおばちゃんにだけはならないよう、心がけていきたい。

2020.10

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。

1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。

2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。

著書に『国境のない生き方』(小学館)『男性論』『ヴィオラ母さん』(文春新書)『パスタ嫌い』(新潮社)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)『オリンピアキュクロス』(集英社)など多数。