鍋は食べる温泉である。
先日、近所に新しいスーパーマーケットができたので夫と様子を見に行ってみた。そのついでに必要最低限度のものだけ買って帰ろうと思っていたのだが、肉売り場でボッリート・ミスト用の肉3種と、一緒に煮込む玉ねぎ・人参・セロリといった材料が便利な一つのパッケージになっているのを見つけ、久しぶりにこの鍋料理を作ってみたくなって購入。鍋料理は、準備に面倒があるとすれば最初の下ごしらえくらいで、いったん作ってしまえば数日は美味しく頂けるというメリットがある。私のような料理無精にとって、もってこいと言えるのがこうした鍋料理だ。
ボッリート・ミストとはイタリア語で「雑多茹で」とでも訳せばいいのか、いわゆるイタリア版のポトフのことである。その他の様々な郷土料理と同様、イタリア国内では同じボッリートでも地域によって一緒に煮込む食材に若干の違いがあるようだが、牛のテールやスジ肉といった煮込み応えのある部位を使うのはどこも一貫している。私が暮らしていたフィレンツェや夫の故郷のベネト州では、それ以外に牛舌、そして鶏の胸やもも肉などが必須素材だ。地域によってはソーセージを入れるところもあるようだが、ボッリートにはこうでなければいけない、という絶対的なレシピはない。野菜も、だいたいどの地域においても細かく刻んで入れるのではなく、玉ねぎであればごろっとそのままかまたは半分、人参も大きさ次第だが大抵はそのままの形状のものを入れて煮てしまう。ヴェネトの実家ではこれにジャガイモも加わるので、鍋の中はある程度大きくてもその分だけぎゅうぎゅうの状態になるのが常だ。
食べるお金もろくになかったフィレンツェでの学生時代、世話になっていた老作家の家では冬の間しょっちゅうこのボッリートをご馳走になった。作家が一緒に暮らしていた恋人のアルゼンチン人男性は北イタリアの移民の血筋だったが、ブエノスアイレスの彼の家では肉を一回ソテーしてから煮ていたそうで、その方が確かに煮込んだ肉にもコクが残る。「これを作っておくと、とりあえず食いっぱぐれない感があって安心」と彼も言っていたが、ボッリートの利点は、そこに第一の皿とメインに付け合わせといった全てが揃っているところにもある。
まずは肉と野菜から出汁が抽出されたスープ。このままコンソメとしていただいても十分なのだが、食べる分のスープだけを別の鍋に取り分けて、そこにパスティーナというマイクロサイズのパスタを入れれば腹膨れ効果もあるし滋養率も高まる。クリスマスなど人が集まる食事会があれば、スープの中に入れる具はトルテッリーニなどの詰め物系のパスタに昇格、見た目も味も一層ゴージャスになる。それぞれの皿に取り分けた後は湯気の立ち上るスープの表面にエクストラバージンオリーブオイルを掛ける(十字型に切るように掛けることから、イタリアの実家の地域ではこの行為を「油の十字」と表現している)。お好みによって更にその上にパルメザンチーズを振れば完璧だ。なぜか日本のイタリア料理店ではそれほどお目にかからないが、イタリア中の家々において年末年始の食事会におけるこのトルテッリーニ入りスープは、昔からの定番中の定番である。
スープを食べ終わったころにはアルコール摂取もある程度進んでテーブルを囲んだもの同士での談話が盛り上がる。その最中に出てくるのがメインの肉と野菜である。野菜は付け合わせのパートを担うわけだが、出汁をスープに取られてしまった肉は食感こそ柔らかいけれど、どれも淡白だ。なので、イタリア人たちはここに自分たちの地域の調味料やソースを用いるわけである。オーソドックスなものといえば、サルサ・ヴェルデというイタリアンパセリで作ったソースだが、バジリコベースのジェノベーゼソースを好む人もいる。ピエモンテでこの料理を食べた時は、ベリー系のジャムが添えられていた。オーストリアとの国境であるアルト・アディジェ州の街では、肉のほかに腸詰も煮ることから、マスタードが添えられていたし、煮込んだ野菜にはキャベツも混ざっていた。
ヴェネト州の私たちの地域では“クレン”と呼ばれる西洋わさびを付けて食べる人が多い。わさびというと日本独特のもののように思いがちだが、実はイタリアでも西洋わさびはメジャーな食材で、特にこうした煮込んだ肉類には欠かせない調味料として季節関係なく皆食べている。モスタルダという果実をマスタードのシロップに漬けた北イタリアの独特なジャムもボッリートにはぴったりだ。
食材さえあれば誰にでも簡単にできるごった煮でありながら、実は振舞われ方次第でここまで多様で豊かな演出を叶えることができるのがボッリート・ミストの特徴と言えるだろう。イタリア料理におけるポジションとしては日本のおでんに近いのかもしれない。スープは美味しいし、腹も膨らむ。同じ鍋で煮ただけなのに食材によって食感も味も違う。贅沢のできない庶民にとっては救世主のような鍋料理のひとつだが、考えてみるとそれは日本やイタリアに限ったことではなく、鍋は全世界において気取らない庶民の食べ物としてその確固たる地位を築いてきた。
シカゴに暮らしていたころの容赦ない厳冬期間、それこそ私は頻繁に鍋料理を作っていたが、現在の料理無精っぷりからは考えられないくらいレシピのバリエーションが多彩だった。イタリアのボッリートもさることながら、日本式の鍋として鱈ちりやおでん、ちゃんこ、そして韓国のキムチチゲにタイのトムヤンクン、そしてタイスキ。ソーセージと芽キャベツ、ジャガイモに人参をごった煮したドイツの鍋料理アイントップ。ポルトガルの魚介鍋カタプラーナに、そこにココナッツミルクを注いだブラジル北東部鍋料理のムケッカ。
鍋料理の良いところは食材さえ揃えれば、火にかけているのを忘れてしまって焦げ付かせてしまわない限り、それなりに出来上がってくれるという点ではないだろうか。そもそも、鍋というのはその見た目だけでも食欲のモチベーションが自動的に上がる仕組みになっている。私の場合、食卓の携帯コンロの上でぐつぐつと煮える鍋を見ているだけでも、美味しさのポイントはじゃんじゃん加算される。シカゴ大学の夫の友人たちがやってくると、大抵我が家では鍋を振舞っていた。時々中国国籍の友人が自分の家で作った餃子を持ってきて、それを入れた和中折衷鍋を楽しむこともあった。
中国といえば、数年前の夏、チベットへ行く途中で訪れた四川省の省都成都では、現地のガイドだったリンさんから「ヤマザキさん、なんだか疲れてるみたいだから火鍋食べよう。本場重慶の直営店あるから、そこに行くしかない」と昼とも夜ともつかない微妙な時間に、地元の火鍋屋へ腕を引っ張られるような強引さで連れていかれたことがある。重慶生まれで成都育ちのリンさんは、バイタリティ溢れるパンチの効いた20代の元気な女性だった。「またいつ来れるかわからないから」と親身になって朝の7時から息をつく間も無く成都中の観光名所を案内してくれた上、パンダ繁殖基地では「ヤマザキさんパンダの赤ちゃん抱いたほうがいいよ、かわいいジャイアントパンダちゃん滅多に抱けないから」と煽られて、赤ちゃんと言うにはデカすぎる上、臭くて汚いパンダの子供を抱いた写真まで撮影してもらった。私もかなり体力には自信がある方だが、その時はさすがにリンさんのマラソンハイにでもなっているかのようなエネルギーに夜まで付き合う自信は萎えていた。そんな時に連れていかれたのが火鍋屋だった。
8月の暑い最中で、しかも午後3時という微妙な時間帯であるにも関わらず、店内は大勢の人で賑わっていた。私もそれまで中国の別の地域や日本で火鍋は食べたことがあったが、そこではまずリンさんが頼んだ鍋自体の様子に驚いた。私が知っている太陰太極図式の火鍋ではなく、丸い鍋の中に縦横2つの仕切りで区切られていて、全部で9つのスペースが設けられている。
「これ、重慶の伝統的な火鍋のかたち」とリンさんに説明を受ける。そこに注がれているのは辛いのからまろやかなもの、シンプルなものまでのあらゆるスープだが、それで煮るためにリンさんが店員さんに頼んだ食材のほとんどがモツだったのにはびっくりした。モツ好きの私にはなんとも素晴らしいサプライズである。
「火鍋はもともと内臓を煮る料理」と彼女は嬉しそうな私にむかってニコニコ微笑みながら、店員が運んできた、一体何の動物のどこの臓器だかわからないものをどんどん鍋の中に投入し始めた。
「ヤマザキさん、これ一番に食べなきゃダメね」と有無も言わせずリンさんが私の器に最初に投入したのは、センマイである。熱々の唐辛子スープで煮込んだセンマイは、消極的だった私の内臓に熱くエネルギッシュに染み渡った。真夏の熱い最中にまさかこんな料理を食べることになるとは思っていなかったが、確かにこれは力になりそうだと私も調子に乗って、なんだかわからない食材を次から次へと頬張った。
「火鍋はもともと貧しい人のごはん。お金なくても、なんでも美味しく食べられるから、みんな大好き」とリンさんに言われてこの世を生きる人間にとっての鍋の重要性を痛感した。鍋は必死で日々を生きる我々人間を、暖かく、そして優しく支えてくれる食文化界のおっかさん的メニューなのかもしれない。
パワフル火鍋で新たなるエネルギー注入を果たした私は、その後夜中までリンさんと一緒に成都の観光を楽しむことができたのだった。
先日は日本のスーパーマーケットの海鮮売り場で、鍋用にパッケージされた様々な種類の食材や多様な出汁を見ながら、日本における鍋の種類の多さに驚かされた。日本人はなぜこんなに鍋料理が好きなのか、より一層深い知識を求めてあれこれネットで検索していたら「鍋占い」なるものに行き着いた。
占いに使われる鍋の種類は海鮮、火鍋、トムヤンクン、そしてすき焼きの4種類。私は海鮮鍋と火鍋で迷ったが、とりあえず火鍋を選ぶと「愛に飢えている度90%」という結果が出た。「心がかなり疲れていて、誰かに愛されることで癒されたいと強く思っているようです。愛のない生活は虚しいと感じているあなた」だそうだ。ちなみにどちらにしようか迷った海鮮は「愛に飢えている度20%」で、「愛より金儲け」なんだそうだ。その次に選んだトムヤンクンは愛の足りなさ70%。スパイシーな味を欲すれば愛への枯渇度が高くなるというオチはちょっと短絡的だが、確かに鍋をひとりで食べている人の絵面は、端から見ればちょっと孤独にも思える。鍋はやっぱり気のおけない仲間同士で囲んで食べるのが理想的だ。湯気がほかほか立ち上る鍋を皆でつつくのは、大浴場に仲間同士で浸かっている感覚にも近いものがある。考えてみたら、風呂は外側から熱いお湯で体を温めるが鍋はその逆だ。すなわち鍋というのは、食べる温泉なのである。

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり) 氏
漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。
1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。
2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。
著書に『国境のない生き方』(小学館)『男性論』『ヴィオラ母さん』(文春新書)『パスタ嫌い』(新潮社)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)『オリンピアキュクロス』(集英社)など多数。