食のエッセイ

啜り喰ってこそ、醍醐味

 イタリア人の夫いわく、日本の食べ物の中でも圧倒的に美味しいと思うのはラーメンなのだそうだ。今からもう15年以上前のことになるが、真冬の札幌の、別に特別有名な専門店でもなんでもない店で食べたこれまた何の変哲もないオーソドックスな味噌ラーメンの味が、相当彼のツボにはまったらしかった。

 ただ、その魂を鷲掴んだラーメンを食べるに至って、彼には一つショッキングなことがあった。初めて入ったラーメン店のカウンターで、自分の両隣(片側は私、もう片側は労働着を来たおじさん)が、湯気の立ち上る熱々の麺をどんぶりから箸で掬い上げ、おもむろに強烈なバキューム音とともに啜り始めたのに度肝を抜かれたのである。

 「ええっ!?」と夫はラーメンの汁で口元を濡らして満足そうにしている私の顔を、狼狽のあらわになった表情で覗き込んだ。両隣のみでなく、周辺でもやはり同じように音を立てて麺を吸い上げている老若男女を見回し、愕然となった。

 「ちょっと待って、これ、バキュームしながら食べるものなの!?」と強張らせた瞼の中の目が怯えを帯びている。「当たり前じゃん」と私はそっけなく答え、すぐにまたラーメンを啜りあげた。できたてのラーメンを目の前に、長くなりそうな食のマナーの文化比較論など交わしている場合ではなかった。しかも私はその頃、札幌のテレビ局で旅と食のレポーターをしており、女性レポーターの中でもラーメンとカレーの食べ方には、ジェンダーを超えた潔さと勢いがあると評価されていた。ラーメンは刻一刻と麺の食感が変化する。とにかくぼやぼやしている場合ではないので茫然自失状態の夫など気にせず、私は濃厚味噌スープと表面に浮かんだ油があんばい良く絡んだ縮れ麺を、再びズズッ、ズズズっとリズミカルに吸い込んで、最後にはどんぶりから直接スープを啜り、あっという間に完食した。私の顔を見る夫の目は、結婚した妻が、実は人間のふりを装っていた宇宙人だと知った時のような、あからさまな狼狽に満ちていた。

 やがて夫は諦めたかのように、静かに自分のラーメンを自分流に食べ始めた。見ていると、箸に絡ませた麺を、スパゲティを食べるのと同じ要領で口に入れては一回一回噛み切っている。口に入れると噛み切られた麺がスープの中にぽたぽたと落下し、それをまた再び口に入れると静かに咀嚼し、飲み込んでいる。私は思わず「ねえ、ちょっと、啜って食べなさいよ、その食べ方はダメだ」と命令口調になった。「日本では、麺類は音を立てて喰うもんなの」

 「できかねます」と旦那は力強く宣言した。「申し訳ないが、できないものはできない」と。そして再び、ラーメンを口に入れてはもぐもぐ噛み始めた。見ているこちらも、美味しい気持ちが萎えてしまうようなそのデリケートで几帳面な食べ方に、隣にいたおじさんも思わず夫の肩をポンポンと叩き、身振り手振りで「ほれ、こうやってさ、啜って食べればいいっしょ、ズズっとさ」と実際自分で麺を啜りながら夫に説明をし始めた。その向こう側の人も見て見ぬ振りをしているが、明らかに夫にラーメンを啜りながら食べてほしいと切願している内心が、あたりの空気に滲み出ていた。しかし夫は体良く微笑みを顔に浮かべ「グラッツィエ」と礼を口にしつつも、やはり皆が求める食べ方をする気配はない。私は夫が食べ終わるやいなや、その場の気まずい空気から逃れるように、そそくさと店を後にした。

 「誰がなんと言おうと、空気と一緒に食べ物を飲み込むなんて、自分には無理だ。体にも絶対に良くない、みんな食道がんや胃がんになっても知らないぞ」と夫は言い切り、その後も蕎麦であろうとうどんであろうと熱々の雑炊であろうと、全て西洋式に丁寧に咀嚼して食べるスタイルを曲げなかった。

 麺を空気と一緒に音を立てながら食べるという話を海外で、特に日本に来たことのある人たちを前に展開すると、私の立場は一気にマイノリティとなる。何も、海外でのマナーに背いてでも、麺であればなんでもかんでも啜りあげて喰うべし、と言ってるわけではない。単純に、日本という土地に来たら郷に入れば郷に従えという気合いで、ラーメンやそばは啜ってもらいたいと言うと「やろうと思ってもできないんだよ、したいしたくないの問題以前に」と被せられてしまうのである。

 最近私が驚いたのは、要はラーメンの本質的なルーツとされる中国でも麺は啜って食べるものではない、啜り喰いは良く無い、とされていたことである。西域の蘭州市をテレビの取材で訪れた時、日本でもちょっと話題になった牛肉麺の有名店に足を運んだのはいいものの、周りの中国人のみなさんは実に静かに食べていらっしゃる。日本のスタッフは皆勢いよく、しかも当たり前のことと言わんばかりに、目の前の赤いスープに浸った黄色い麺をズズズズーと勢いよく吸い上げているが、そんな食べ方をしているのは自分たちのテーブルだけだった。同席していた中国人のコーディネータの方に問い質してみると「中国でも音は立てません。わたしも最初、日本の人の麺の食べ方見て驚きました」という答えが返ってきた。やはり麺を啜って食べるのは日本人独特の食べ方らしい。確かに、イタリアではレストランで突然ズズッ、ズズズッという音がすると私もびっくりしてしまう。振り返ると大概そこには日本の観光客の方達(特に年配者)がテーブルを囲んでいたりするわけだが、アウェーにおけるアウェーレシピの日本式啜り喰いは、確かに周りの人にとっては間違いなく不快要素となる。

 とはいえ、そのようなハードルを乗り越えて日本人式麺類の食べ方をものにした外国の人もたくさんいるし、「日本で麺を静かに食べると、まったく美味しくない」という感覚にもなるようだから、やはり私的には意識のタガを外すか外さないかの問題だけのように思えるのである。何より、啜り喰いはああ見えて、日本においては麺類を食する時の「マナー」のひとつなのだ。それを夫に言うと「マナー!?ただ行儀が悪いだけじゃないの」と言われ、私は思わず「西洋の食事におけるマナーを中心軸に物事考えるな!」と反論せずにはいられなかった。

 例えば箸のルールというのは何かと厳しい。かつて夫が大皿から私が箸で取り分けようとした食べ物を、そのまま自分の箸で掴もうとしたのを見て、私は思わずその手を払った。「えっ、なんで!?」という顔で私を見る夫に「日本ではこれは絶対にやってはいけないこと」と、由来も含めて説明をした。茶碗に箸を立てるのも同じくやってはいけない。大皿から自分用のおかずを取るのに専用の箸がなければ、自分の箸を上下反対にする“返し箸”にしなければならない。その他、箸で物を指す“指し箸”、嫌いなものを避ける“撥ね箸”、何を食べるか箸先で迷う“迷い箸”など箸のルールは果てしなく奥が深く、しかも厳しい。そこまで話して、やっと夫もラーメンの啜り喰いは決して行儀の悪さによるものではない、ということを理解してくれたようだった。

 世界には多様な食事のマナーがあり、そこに暮らす人々は皆それを子供の頃から教え込まれて生きていくわけだが、私のようにいろんな国に暮らしてきても、そういったマナーを徹底的にマスターするのは至難の技である。

 例えばハンガリーでは1848年にオーストリアからの独立革命に失敗した過去を踏まえて、いまだに「最初はビールで」の乾杯はNGだと言うし、ドイツではジャガイモを、そしてイギリスではアスパラはナイフで切ってはいけない、とされているそうだ。インドでは食べ残しは失礼に当たるけど、中国では接待で出されたご飯を完食してしまうと、それは「おもてなしが足りなかった」という意味になり失礼だから、ある程度残さなければならないとか、メキシコのタコスをナイフ・フォークで食べるとスカした奴に思われるのに、ブラジルではタコスでもピッツァでも基本的に手で直接食べるのはタブーだとか、手でご飯を食べるイスラム圏では左手はトイレの時に使う手なので食事の時は右手のみ、とか、まあとにかくあれこれ探ってみるときりがない。西洋ではテーブルで肘をつくのは絶対的タブーだが、私はよく、食事の時に利き手以外の手、私であれば左手をテーブルの上に乗せないままでいると夫にガミガミ叱られる。

 「そもそも、どうして使ってない手をテーブルの上に乗せていないといけないわけ!?」と聞いてみると、「見えていない手でテーブルの下で“へんなこと”をしている可能性があるじゃないか」と夫。「例えば隣の女性の太ももを撫でたりとか」という説明は夫の個人的見解かもしれないが、とにかく使ってない手をテーブルの下に隠したままの食事というのは、イタリアと限らず欧米では極力やってはいけないことらしい。それから、食べ物が口に入っている状態で喋ることもタブーだ。これは現代の日本人であれば比較的気をつけていることではあるけれど、よくテレビなどで食レポ中のレポーターが食べ物が入ったまま「おいひいれふう!(おいしいです)」などとコメントをしているのを見ると夫のような人間は「こんな行儀の悪い行動を堂々とテレビで放映していいのか!?」と思うらしい。自分の経験上、時にはカメラが回っているプレッシャーで急いでコメントをしなければならない場合があるのだ、と説明をしてみたが「そういう時は、リスみたいに頬に食べ物をいったん寄せてから喋るべきだ」と力説された。今は意識してそういう風にすることもあるが、頬に一旦デポージットした食べ物をコメント後に元に戻して食べ直すのは、正直あまり心地がいいものではない。

 そんな話を、先日私の近著「パスタぎらい」を読んで盛り上がってくださったマキタ・スポーツさんとしていたら、彼はベビースターラーメンに関しては、咀嚼し、飲み込むとそれでもうすべて終わってしまうのが悲しくて、喉へ落ちる一歩手前でそのまま下へ送り込むのを食い止め、再び口の中に戻すこともあるという。公にしていい話だったかどうだか忘れてしまったが、翌日私は早速ベビースターラーメンを購入し、同じことをしてみようとして失敗したので、マキタさんはすごいなと思ったのだった。牛の反芻行動に近いが、飲み込みたくなるものを途中で止めておくのはなかなか難しい。彼とは他にも、啜って食べなければ美味くない食べ物のほか、小洒落過ぎる店が苦手、マナーをあえて無視するからこそ醍醐味感のあるものなど、お互いボーダーレスな美味食文化についての話で際限なく盛り上がった。

 それぞれの国における食べ方のマナーは確かに意識して然るべきものと思うが、周りの人の迷惑にさえならなければ、マナーにばかり縛られすぎない食べ方も、食べ物への一種の尊重のかたちではないかと私は思うのだった。

 昨今、イタリアの各地でラーメンを出す店が増えてきているらしいが、それがパスタではなく“ラーメン”という食べ物である以上、私ならきっと日本と同じように啜り喰ってしまうだろう(というか既に地元の新設ラーメン店で実践済み)。そもそもラーメンとはそうやって食べられることを前提として、味も形状も食感も追求されてきた料理だと言っていいわけだから、たとえ窓の向こうにルネサンスやバロック様式の厳かな建造物が建ち並んでいようと、その前の石畳を真っ赤に輝くフェラーリが走り抜けて行こうと、正直私には関係ないのである。

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。

1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。

2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。

著書に『国境のない生き方』(小学館)『男性論』『ヴィオラ母さん』(文春新書)『パスタ嫌い』(新潮社)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)『オリンピアキュクロス』(集英社)など多数。