食のエッセイ

お酢の万能感

 嫌いというわけではないのに、なにやら味覚の都合でオレンジやレモンなど酸っぱい果物が食べられない私だが、梅干しなど酸っぱい果物を塩漬けにしたりしたものは、なぜかまったく平気だったりする。カルパッチョや生牡蠣にレモンを掛けるのは控えたいが、それがビネガーのような酢であるのなら全く問題はない。ちなみに梅干しに関してはほぼ好物の領域と言っていい。毎年、友人が送ってくれる和歌山県南部の絶品梅干しは、切らすと軽いパニックになることすらある。ちなみに梅干しの酸っぱさは、果物に特有のクエン酸だそうだから、クエン酸が全くダメ、というわけでもないのだろう。洋酢と呼ばれるワインビネガーももともとは葡萄から作られたものだが、あれも平気である。どういうことなのかさっぱりわからないが、要は発酵させたり、梅干しのように時間を置いた酢っぱさであれば、私の味覚も寛容になるのかもしれない。

 ワインビネガーといえば、イタリアの食文化には欠かせない調味料である。イタリアのレストランでサラダを注文したことのある人ならご存知だと思うが、あの国では野菜用のドレッシングは食べる直前に自分たちで調合する。テーブルの上に置かれたオリーブオイル、ビネガー、塩コショウを好みのあんばいでサラダに和えるのだが、複数で食べる場合、調合をする人は「サラダを和えるけど、自分流でいいですか?」と周りに断ることになる。人によってはオリーブオイルをこれでもかというくらい掛ける人もいるし、ビネガーをたっぷり振りかけた酸っぱい味を好む人もいる。種類にもよるが、私はビネガー多めの味付けが好みである。

 ワインビネガーには赤いものと白いものがある。スーパーマーケットの棚に透明なガラス瓶に入って売られていると、中味もワインそのものに思えたりすることがあって「ビネガーってのはそもそもワイン酵母でできているんだよな…」と思い出すのである。姑の家ではよく長期間放置されたワインが酸っぱくなってしまい「もうこれは飲めない。お酢として使うしかない」などという言葉が聞かれるが、ビネガーはそんなふうに家でも作れてしまうお酢なのである。

 我が家ではバルサミコ酢もよく使う。ビネガーと同じ葡萄が原材料だが、こちらは醸造過程で煮詰めるので、酸っぱさは抑えられ、どちらかというと甘い。

 日本でもバルサミコ酢はすっかりメジャーになったが、そのむかし、まだ日本に“イタめし”と称されるブームが到来する以前から、私はバルサミコ酢に首ったけだった。首ったけすぎて、貧乏学生の分際でモデナの古い醸造所まで行き、小さなボトルに入った熟成何十年、という貴重なバルサミコ酢を調達したこともある。特に気に入っていたのは、スライスしたパルミジャーノ・レッジャーノに、この甘酸っぱいどろりとした液体を垂らした食べ方だ。最近は白いバルサミコ酢というのも出回っていて、なかなか気に入っている。黒いものよりさっぱりしているので魚介や鶏肉などにも合うし、日本の米酢が無い時にこれを白米に混ぜて酢飯にしてみたらそれなりに美味しくなることもわかった。かなり重宝する調味料である。

 とはいえ、イタリア人にとってバルサミコ酢はそれほど重要性のあるものではない。そもそも彼らはバルサミコをお酢というより、料理に小洒落感を演出するソース、という捉え方をしているところがある。お酢といえばやはり酢酸を一定量含んだ酸っぱい液体を意味しているので、バルサミコはお酢の代用にはならないし、うっかり切らしてしまった場合はレモンを使う。バルサミコは無くてもなんとかなるけど、ビネガーが無いとなるとちょっとした問題になる。なぜならイタリアの人々にとって、ビネガーには単なる調味料以上の多様の役割があるからだ。

 欧州の多くの国では水道水に石灰分が含まれている。何故日本でこれだけ普及している自動洗浄便座が、欧州では普及しないのか疑問に感じていた時期があったが、実際デンマークの友人が日本に来た際にこの洗浄便座を購入して自宅に設置したところ、間もなく石灰が詰まって使い物にならなくなってしまったという。確かに、シャワーもしばらく使っているとお湯や水の噴射の方向が乱れてきて、最終的にはシャワーヘッドに何十個も空いている筈の、穴の殆どに石灰が詰まって使い物にならなくなる。水回りだけでなく、お湯を沸かすポットなどにも同じだ。我が家で使っていた電気式の湯沸かし器など、真っ白な石灰が厚い層となって付着し、お湯を注ぐとその石灰の粉や切片が混入してしまい、お茶などの飲み物が不味くなる。

 そんな時に大活躍するのがビネガーなのである。ポットにたっぷりビネガーを満たして一晩ほど置いて洗ってみると、驚く程石灰が剝がれ落ちてゆく。お酢には石灰質を分解する効力があるらしい。

 それだけではない。たとえば生魚を調理した時など手に付いた臭いを取払いたいときにもお酢は活躍してくれるし、ふきんなどの消毒、殺菌にも欠かせない。食洗機などを洗う時にもお酢を用いると、内側に付着した石灰質を分解しつつ殺菌もしてくれるので、イタリアの主婦達はせっせとお酢で掃除をする。うちの姑はガラスや鏡の汚れを拭き取るのにもお酢を使っているし、人によってはPCやテレビの液晶をきれいにするのにお酢を使うらしい。こんな具合に家の掃除全般は、お酢さえあれば事足りてしまうのである。

 掃除だけではない。知り合いのお婆さんはお酢で時々顔を洗うとさっぱりするのよ!と得意そうに話していたこともあった。花や植物の水にもお酢を垂らすと良いと聞いたこともある。これに健康食品としてのメリットも加えればお酢はまさに万能の液体ということになる。万能過ぎて、時々人様の家そのものがビネガー漬けのような臭いを漂わせていることもあるが、慣れてくるとあの酸っぱい刺激臭も気にならなくなるようだ。

 お酢の万能性は古代人も把握していて、何十世紀も昔から病や外傷の治療やミイラなど死体の保存にも使われていた。大プリニウスは『博物誌』の中で、お酢を金属と反応させると緑色の顔料になることを記録している。勿論、調味料としても使われていたし、ワインが酸っぱくなってしまった時には煮詰めて『サパ』と呼ばれる甘いシロップにして食べていたことも判っている。

 そういえばかつて私のパートナーだった口の悪い詩人はよく、あいつはもうどうしようもない、古くさい、と言いたい時に「ソット・アチェート」という表現を使っていた。イタリア語で「酢漬け」という意味である。決して彼が生み出した比喩ではなく、もともと存在していたものらしいが、ミイラや死体を保存するためにも酢が用いられていたことを考慮すれば、ひょっとすると随分古くからあった表現なのかもしれない。お酒を放置しておけば酸っぱくなり、それはそれで用途がある、ということはもう大昔の人々も知っていたわけだが、古さの形容にも使われるくらい我々の日常に浸透しているお酢は、人類の文明とともにある調味料なのであった。

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

1967年東京都出身。

17歳で絵画の勉強のためイタリアに渡り、国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で、油絵と美術史を専攻。'97年漫画家デビュー。

『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。

著書に『国境のない生き方』(小学館)、『男性論』(文春新書)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)など多数。

エジプト、シリア、ポルトガル、米国を経て現在はイタリア在住。

平成27年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

平成29年イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。