食のエッセイ

米料理とごはん

 仕事が忙しくなったのと、ちょっと外に出れば美味しい食堂がいくつもある場所に引っ越して来たのが理由で、料理というものをしなくなってしまってからもう随分経つ。先日、久々に留学時代に得意で周りからも絶讃された肉の煮込みを作ってみたら、火加減も味付けの勘もすっかり衰えて、予想以上に不味い物が出来上がってしまった。留学時代、貧乏で外食が叶わない分、僅かな食材と知恵でなんとか美味しい物を作ってやろうと躍起になっていた時期が長く続いたおかげで、日本に一時帰国していた時はローカルテレビ局でコストパフォーマンスの良さと簡単さをウリにしたイタリア料理を作ったりもしていたあの能力は、今では一抹の気配も留めずに消えてしまったようである。料理も、絵や楽器演奏と同じで、毎日ひたすら続けていなければ、簡単に忘れてしまうものなのだ。

 ただ、そんな私であっても、今でもひとつだけ上手く調理できるものがある。それは普通の鍋で米を炊く事だ。うちの母もやはり忙しくてろくに料理をしなかった人だが、米を炊くことだけには何故だか猛烈な拘りがあり、高度成長期、世に出回っていた電気炊飯器などは絶対に信用せず、今世紀になる直前まで文化釜を使い続け、幼かった私にもその原始的な方法での米の炊き方を既に伝授していた。戦争を乗り越えてきた母には、米さえ美味しく炊けていれば、どんな質素なものがおかずでも美味しい食事になる、米こそ一番の贅沢、という確固たる信念があった。

 母は、演奏会などで留守をするときも滅多に夕食の作り置きなどしない人だった。今思えば小学生の子供に炊事をさせるなんて、危な過ぎる!と思われそうだが、あの頃はいろんな事情の家が普通にあったから、ご近所も学校の先生も誰ひとりとしてそんな家庭環境で暮らしている私を懸念する事も無く、私は学校から帰ってくるとお米を磨いで、母の置いていった千円札でおかずになりそうなものを近所の店に買いに行き、自分と妹の食べるものを用意するのだった。おかず代の千円はたまに当時お気に入りだった週刊少年漫画誌の調達費に変わる事もあったが、その残りで玉子が買えれば夕食の準備は完璧だった。炊きたての白米に醤油で解いた生玉子のぶっかけご飯。それさえあればもう、私の全身の細胞は至福と満足感に満たされるのだった。

 考えてみたら自分が子供だった頃は、図書館で借りてきた漫画の「はだしのゲン」にせよ、税を取り立てられる貧しい農民達を描くテレビの時代劇にせよ、貧しかった時代にどれだけ米というものが日本の人々によって渇望されていたのかを知る機会が随分あったように思う。そういったメディアからの影響もあって、シンプルであっても貴重な食材であるお米に対する思い入れが増していたのもあるのだろう。

 だから私は、やがてイタリアでの留学が始まっても、イタリア人達に囲まれ日々の食生活がイタリア化しても、定期的に米を炊いて食べる事を続けてきた。たとえそれが日本の米とは形状も味も違うイタリア米であっても、はだしのゲンを思い出しさえすれば、気にはならなかった。

 「にがい米」というイタリア映画がある。戦後間もない頃に撮影されたこの映画は、シルヴァーナ・マンガーノというグラマラス女優を世界に知らしめて有名になったが、私が一番最初にこの映画を見た時に印象的だったのは、イタリアでも米が作られ、食べられている、という事実だった。

 イタリアへの留学が決まった頃、高校生だった私は名画座で古い映画の大好きな同級生とこの作品を見たのだが、イタリアといえば日常人々がパスタやピッツァばかりを食べている国、という安直なイメージしかなかったので、スクリーンに映し出される太股を露わにした女性達が、懸命に田植えをしている光景がとても意外だった。その数年前に一人旅で訪れたフランスの家庭でもドイツの家庭でも、米の料理が出されることは一度も無かったし、私はてっきり、欧州では料理に米という穀物が使われることはないものと思い込んでいたのだ。だから、イタリアで私が日本式に炊くその米を、彼等がリゾットというものにして食しているのを知った時、この国民と日本人にお米を食べるという共通点があって良かったと安堵した。異国では、食の感性を分かち合えるかどうかは、言語が通じ合うかどうかくらい大事な事だからだ。

 しかし、実際のところ、共通の食材によるコミュニケーションは実はそれほど容易ではない。フィレンツェでアパートをシェアしていた学生達に日本式に炊いた米と、持って来たなけなしの鰹節でおにぎりを握って振る舞ってみれば、皆でそろって「米に味がねえ!」と不味そうな反応。外には塩をまぶしてはあるものの、「うっかり塩を入れて調理し忘れたんじゃないの、米自体に味がついてないよ」と訴えられた私は驚いて思わず「米に塩を入れる!? そんなの有り得ない」と反発するも、とにかくイタリアの学生達には全く塩気の無い米の味は不評で終った。

 米の味とは直接関係ないが、海苔で包んだおにぎりをローマ行きの列車のコンパートメント(当時は長距離列車はこの6人部屋システムだった)で頬張っていたら、向かい側に座っていた親子連れの幼い子供が「ママ、あの人子供の頭食べてる、怖い」と怯えてたのが忘れられない。勿論その後は、それが米でできた日本式の携帯食であり、つまりイタリアの「パニーノ」みたいなものだと説明も試みたが、あの時、明らかにあのカンパニア州の田舎に暮らしているという親子は、日本人の思いがけない米の加工の仕方にショックを覚えたに違いなかった。

 それから暫くして、今度はシチリア島の家族に日本から持って来たインスタントの素でちらし寿司をこしらえてみれば、「甘い!なんで米をこんなに甘くするんだ!」とまたしても不評。今でこそ世界に名だたる「スシ」の酢飯の味覚は多くの国々で市民権を得るに至ったが、当時の、しかもシチリア島の片田舎ではまだ誰も酢飯の存在など知る由も無かったので、甘酸っぱい米は大きな衝撃だったようだ。(ちなみに北部のエミリア・ロマーニャ州ではお米を牛乳と玉子などで甘く味付けて焼く、お米のケーキなるものが存在する)

 ヴェネト人であるうちの夫の母などは北部の人らしくリゾットが大好きなので、年がら年中旬の野菜をつかってこの料理を作っているが、かつては私が日本風の米を炊いてカレーかなんかと一緒に振る舞うと、「ほらご覧、あんなに洗うから粘り気がすっかり取れてこんなバラバラになっちゃうんじゃないの」と意見をしてきたことがあった。イタリアの米をよく食する地域の人達にとっては、アジア一帯での米の食べ方である、一粒一粒が分離した様子は考えられないものだったようだった。米の料理と言えば、本質的には雑炊やお粥に近いあのどろっとした質感を齎す(もたらす)もの、という固定概念があるからなのだろう。今でこそ中華料理屋が普及したことでこの世にはぱらぱらのご飯もアリなんだ、と誰しもが思う様になってはいるが、それも極最近の話である。

 ちなみに、日本以外のお米を使った料理で私が大好きなものを挙げて行くと、インドネシアのナシゴレンやタイのガッパオやカオニャオ(餅米)のデザート、イランのバガリポロという空豆とハーブの炊き込みご飯や同じくイランのゼレシュクという赤い干した果物とサフランの炊き込みご飯(イランの炊き込みご飯はこれ以外でも本当に美味しいものが多く、米料理文化が成熟しているというのが私的見解。ちなみにイランのご飯の炊き方も火加減やら何やらが大変難しい)思い浮かべてみるとキリが無いが、他にはスペインのパエリア、そして長く暮らしていたポルトガルの鴨の炊き込みご飯(大好きで毎週1度は食べていた)……

 そう、どちらかというと、私はリゾットのようなドロドロしたものより、パサパサ仕様の米料理が好きなのだ。なのでイタリアでは、リゾットがいくら姑を含む家族にとっての大好物で頻繁に料理として振る舞われても、あまり率先して食べることはない。姑が鍋から私の皿にリゾットを盛りつける時も「私はちょっとでいい」と言うと、「ああ、あんたはあのパサパサ米に洗脳されているからね」などと冗談だか嫌味だか判らない事を言われるが、リゾットも嫌いなわけではない。ただ、やはりご飯は丁寧に時間をかけて炊き上げた、粒がつややかに誇り高く独立しているのが、私にとっての極上の、そして理想の米のあり方だ。米と同じく、人間もべたべたしているのは嫌い。あんまり本文のテーマと関係ないことだが。

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。

1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。

2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。

著書に『国境のない生き方』(小学館)『男性論』『ヴィオラ母さん』(文春新書)『パスタ嫌い』(新潮社)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)『オリンピアキュクロス』(集英社)など多数。