真夏のジェラート
7月下旬に日本へ移動してくる直前、我が家の温度計は室温40度を差していた。内陸の盆地であるフィレンツェが真夏に40度近くなる事はあっても、私が暮らす北イタリアがそんな気温に達する事は滅多になく、街の人々はかなりパニックに陥っていた。隣近所の男衆達は上半身裸でその辺を彷徨いていたし、テレビでは仕切りに「暑いので外にはなるべく出ずに、水分を十分補給して下さい」という報道を繰り返していたが、確かにイタリアの暑さには湿気が無いので、石造りの家の窓や鎧戸を閉め切ってしまえば、気温の上昇はある程度抑えられる仕組みになっている。
私は毎日水を浴びる様に飲んで、なんとかその暑苦しさを凌ごうと頑張ったが、仕事は集中できないし、眠くなるしで、とにかくやりきれない。イタリアの人々が、経済的な苦しさが今程ではなかった数年前まで、必ず真夏に一ヶ月の休みを取っていたのには、しっかりとした理由が裏付けされていたのである。暑さの中で人間は体力も精神力も持続しない。この国において、猛烈な暑さの中で人間が辛うじてできることと言ったら、日中は何もせずにダラダラと過ごし、少し涼しくなった夜には街に出て行きジェラートを頬張る事くらいだ。夏の間のイタリア全国におけるジェラート消費量がどれくらいなのかはわからないが、私の場合は、少なくとも毎日儀式のようにジェラートを食べ続けて夏を乗り切るようにしている。
ジェラートという固有名詞は今では日本でも市民権を経て、専売店まであるのを見かけたが、ジェラートとはイタリア語にすると単純に「アイスクリーム」という意味だ。イタリア原産の特別な冷菓というイメージを持っている人もいるようだが、イタリアでは普通にその辺の喫茶店や食料品店で市販されているものも、要するにジェラートである。
にしても、イタリアの街角で売られているあのジェラートの濃厚な味覚や食感とネバネバな質感は、やはり市販のものでは再現されない。あれをカップやコーンに乗せるだけでなく、ブリオッシュのようなパンに挟むという食べ方もあるが、暑さで食欲が減退しているときなどは、それ一つで結構腹持ちもする。誰それの家に昼食や夕食にお呼ばれする時は、そんなジェラートの何種類かの味覚を発砲スチロール性の容器に詰め込んで、お土産として持参するのもメジャーである。
ちなみに私が夫の実家に持って行くジェラートは味が決まっている。それ以外の味を試してみるという冒険をすると怒られるので、家族が嗜好する味だけを選んで行くのだが、珍しいものとしては「リコリス味」というのがある。この味のジェラートはどこの店にもあるわけではないので、お土産を買う店も限定的になるが、私自身はこの味のジェラートがあまり好きではない。
リコリスは日本語に訳すると「スペインカンゾウ」というものらしいが、この植物を練ったか何かしたものにアニスの味を付けたものを、ヨーロッパに行った事のある人なら、必ずどこかで見た事があるだろう。真っ黒なグミのような、正直日本人の味覚にはなかなか馴染めない強烈な臭いと味のこのお菓子の味が、ジェラートでも再現されているわけだが、我が家では私以外皆これが大好物なのである。味覚文化の隔たりは普段感じない私も、これだけはいつまでたっても口にする事ができないのだった。日本でも、いろんな地域に「ええっ!?」と思うような不思議なソフトクリームが売っているが(納豆味とかウニ味とか)、リコリスはそれ以上にハードルが高い味なのである。
そんな斬新な味覚の領域にまで到達しているアイスクリームだが、その歴史というのは実は意外に深く、なんと古代ローマ時代に溯る。最初に食品を保存するために使っていたアルプスなどの雪や氷に蜂蜜やワイン、そして動物の乳を混ぜて食べることを流通させるようになったのは、かのカエサルだったとする説もある。ネロもこの山の雪に蜜や果汁を掛けたものを大変好んで食べていたとされているが、イタリア半島の真ん中に位置するローマまで、アルプスの山の雪を溶けずに運んでくる事自体が大変コストの掛かる事なので、決して一般にまで普及していたものではないのだろう。お金持ち限定の嗜好品であった事は間違いない。
乳をベースにしたアイスクリームの原型は、マルコポーロが中国から齎した(もたらした)ものとされるし、シチリアではアラブ圏で既に食べられていたシャーベットがイスラム文化の影響とともに伝来し、独特の氷菓文化は発達したとされている。何であるにせよ、イタリアがアイスクリームやシャーベットなどの氷菓が繁栄するのに大事な拠点だった事は明らかである。
ところで最近の私の流行りは、イタリアのアイスクリーム会社が出しているキューバのラムをベースにしたカクテル「モヒート」味のアイスキャンデーだ。これがなかなかの人気で、暑い時期には売り切れにしている小売店も多い。日本だとガリガリ君がアイスキャンデーの類いでは様々なテイストの商品を出して幅を利かせているが、できるならいづれこのモヒート味のような、大人向けの商品も出てくれたらいいのになと日本に来る度思うのである。
日本ではまだアイスクリームを頬張りながら外を歩くのには抵抗を感じる大人がいるように見受けられるが、イタリアでは頭の禿げた髭面の中年男やスーツに身を包んだビジネスマンが、真っ昼間の街中を、堂々とアイスクリームやアイスキャンデーを食べながら歩いている姿を良く見かける。あの一世を風靡した、男の中の男の象徴とも言えるカエサルでさえアイスの虜になっていたことを思うと、アイス好きな男性というのは粋の象徴、とさえ感じるのである。この暑さに便乗して、日本でもアイスを頬張りながら街を闊歩するかっこいい男性を見かけてみたい。

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり) 氏
漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。
1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。
2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。
著書に『国境のない生き方』(小学館)『男性論』『ヴィオラ母さん』(文春新書)『パスタ嫌い』(新潮社)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)『オリンピアキュクロス』(集英社)など多数。