食のエッセイ

オリーブ・オイル

 イタリアでは火傷をすると、応急処置として患部にオリーブ・オイルを塗るという風習が残っている。大学時代、同じアパートで一緒に暮らしていた南イタリアの女子学生が、パスタを茹でたお湯が掛かって火傷をした私の指に、「これ効くから!」と実家から送られてきたという濃厚なオリーブ・オイルを塗ってくれた事がある。それを目の当たりにした時は、一瞬焼け石に水的な、何とも懐疑的な印象を持ったものだが、実際その火傷はそれ以上酷くはならなかった。信憑性を確かめるために他のイタリア人達にも聞いてみたところ、母親やお婆さんが子供の頃に火傷をすると、いち早くオリーブ・オイルを塗ってくれた事がある、という経験者は少なくなかった。なので、この「火傷にオリーブ・オイル」は恐らく随分古い時代からかなりの広範囲に渡って、火傷の治療薬としても用いられてきたようだ。

 もともと地中海沿岸の地域で、三千年も四千年も前から搾り取られていたというオリーブ・オイルだが、我々はオリーブ・オイルと聞くとすぐにイタリアや南フランスなど南欧料理には欠かせないもの、という解釈をしがちになる。しかし、オリーブ・オイルの世界は私達が考えている以上に、遥かに深い。以前暮らしていたシリアでは、ビザンチン時代から栽培が続いているという広大なオリーブ畑を訪れた事がある。しかも、そのシリア産の素朴なオリーブ・オイルは、イタリアの特産地の名品よりもはるかに美味しかった。シリアでのオリーブの活用法は油に留まらず、純度の高い石鹸なども製造されているのだが、紀元三世紀のパルミラ王国の女王ゼノビアが、その絶世の美しさを保つために愛用していたという伝説が残っているくらいだから、オリーブという果実が古代から貴重で重要なものとして扱われていた事が伺える。

 ちなみにエクストラ・ヴァージン・オイルに含まれているオレオカンタールという成分は、風邪薬に入っている抗炎症剤と同じ効果を発揮する事も知られているし、主成分のオレイン酸は便秘にも効く。その他にも様々な画期的利点があるとされる万能の液体だが、かつてカエサルがとある戦いで勝利をした記念に、軍人達一人当たりにつき2ガロンものオリーブ・オイルを奉仕したそうだ。私は古代ローマのパワーの秘訣がお風呂だったという漫画を描いたが、実はオリーブ・オイルの効果というのも、そこには相当関与していたのかもしれない。

ヤマザキマリ氏

著者:ヤマザキマリ (やまざき・まり)

漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。

1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。

2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章綬章。

著書に『国境のない生き方』(小学館)『男性論』『ヴィオラ母さん』(文春新書)『パスタ嫌い』(新潮社)『スティーブ・ジョブズ』(講談社)『プリニウス』(とり・みきと共作 新潮社)『オリンピアキュクロス』(集英社)など多数。