食のエッセイ

コミュニケーションとしての”食べ物” 第1回

たとえば自分の家にある一番上等な漆塗りの椀を取り出し、極上のブランデーを波々と注ぎ、清潔そのものの洋式トイレに入り、便座に座って独りで飲んでみる。または、極上のブランデーグラスに即席ラーメンを入れ、誰もいない洋室のソファーに腰をゆったりと沈め、銀製のフォークで、それを食べてみる。

言うまでもありません。「これは美味しい!」などとは、決して言えないでしょう。このブランデーもラーメンも、普通の飲み方、食べ方で口にした場合と比べてみても、味は少しも変わっていないはずです。しかし、実感としての味は、非常に異なっているものです。飲食物には、それぞれに“そぐう”食器、場所などが必要なのです。それだけではありません。飲食は、誰かと共にというのが普通です。その場合も、“そぐう”仲間と一緒にならば、飲食物は一味違うものとなります。

日本での例をとれば、朝食、夕食は一家団欒しながらとか、昼食は会社で仲が良い仲間と共にする、とかいうことです。たとえ一人で酒場に飲みに行くとしても、行き先の店には話相手になる常連や店のスタッフがいることを期待するということもあります。

飲食を共にする人物の有無は、当然、味の良し悪しに影響すると同時に、その場をコミュニケーションの場とします。家族が集まっての食事では、家族の一人一人がその日の出来事を互いに知らせあったり、子供は必要なことを親に報告したり、親は子供に伝えておくべき事を話題にしたりします。食事中に他愛ない雑談をしたりするのも、コミュニケーションの一例です。会社や学校でも、休憩時間の個人的な人間付き合いの基本は、食堂や遊技場などでなされます。なんらかの話題の交換を目的とするパーティーには、食べ物が付き物です。たとえ、その集まりの目的が食べること以外のところにある場合でも、その場で飲食するものが全くないということはありません。

以前、「“食べ物”は文化である」ということを話しましたが、人間が、何かを食べたり飲んだりするのは、単に生命を維持するためにというのではなくて、何かを“どのようにか”食べるとか、それを“どのようにか”味わう、という点に重点が置かれています。 すなわち、人間にとっての“食べ物”は、野生の動物や鳥や昆虫にとっての“餌”とは異なるのです。野生の動物は、餌を味わうということはありません。それぞれの種類の動物が餌とする、定まった種類の“食べられる物”を口にするのです。餌というものは、生命の維持を支えるだけのために摂取されるものなのです。この点では、人間のペットとなっている犬は、やや人間の生き方に近くなっているとも言えるでしょうか。いずれにせよ、この種の動物だから、この種の餌を食べることが決まっているというのではなくて、何人いようが、どんな人物であろうが、人間はすべて同じ種類の動物でありながら、時代によって、また、各集団ごとに異なった形で、飲食を“どのようにか”行っているということがあります。そのことが個々の文化の基本であるとすれば、その“どのようにか”は、赤ん坊の時から周辺にいる他人、すなわち親や目上の人々などからの話や教えをコミュニケーションを通じて身につけることになったものですから、“食べ物”というものは、根源的にコミュニケーションの産物であるとも言えるわけです。

“食べ物”が、如何なるコミュニケーションの場で使われるかという話を、具体的な例をあげて始めれば、朝昼晩の食事、友達付き合いの場、パーティ、一杯飲み屋、などなどと、例は尽きることはありません。そうではなくて、コミュニケーションとしての“食べ物”を、基本的に支えているものは一体何なのかという面から考えてみますと、それには次のような“7つの要素”があるのではないかということに気付きました。

  1. ことば
  2. 人物特徴
  3. 身体の動き
  4. 環境
  5. 生理的反応
  6. 空間と時間
  7. 人物の社会背景

“食べ物”の味とか値段といったようなものは、すべて、これらの7つの要素の背後にあるものです。また、食べ物は、如何なる場合も、すべての要素に関係したものとしてのみ在るものと言えます。したがって、これら要素が単独で成り立つということは決してありません。たとえば“ことば”要素のみで、コミュニケーションが成り立つことはないということです。その場合も、他の残りの6要素は、そのコミュニケーションの何処かに、幾分かは含まれているということです。“身体の動き”という要素をあげた場合には、その話題には必ず、その背後に“ことば”、“人物特徴”、“環境”、“生理的反応”、“空間と時間”、“人物の社会背景”といった“身体の動き”以外の要素が、その例の幾分かは支えているということになります。

次回、これらの要素の主な働きについて、順を追って話してみたいと思います。

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。

主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。

また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。

第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。

また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。