食のエッセイ

”文化”としての”食べ物" 第2回

前回は、“文化”とは何かということについて、少しばかり長めに話ました。
“文化”の意味などは自明のことと思っている人が多いようですが、そういう人は、ある時代、地上のある土地で、そこに生活する人々が憧れを抱いているような事物だけが“文化”だと信じているようです。確かに一人前で何万円もする高級フランス料理も文化の一例です。しかし、一杯300円程度の立ち食い蕎麦も立派な文化の一例なのです。

ある時代、ある土地を見たとき、そこに住む人々のほとんどが、ある事物に共通して“どのようにか”かかわりあっている。その“かかわり”のあり方が文化なのです。物自体、事自体は文化ではありません。誰も見向きもしなければ、それは単なる“なんでもないもの”にすぎないのです。文化には素晴らしいものもありますが、くだらないものも多くあります。いや、ある社会では良い文化、素晴らしい文化だと言われるものも、他の時代、他の社会から見たならば極めて下らないものだと評価されるものは、あまりにも普通です。たとえば、皆で鍋をつついて食べるというような、人間関係からみても心が温まる日本の食事文化も、価値観が異なる別の社会から見れば、単に、“不潔な風習だ”と言って馬鹿にするかも知れません。銀のナイフやフォークを使う食事も文化の一例ですが、ゴザのうえに座って指で料理をつまんで食べるのも、立派な文化です。食べなければならないというわけでもないのに、毒の危険があるフグを、わざわざ食べるというのも文化です。

それでは、“食べ物”は“文化だ”ということに、もう一歩、踏み込んで行きたいと思います。重要なことを思い出してください。文化というものは、人間が何事かに“どのようにか”かかわるということです。

1. 個々の社会は、“食べ物”であると認める素材を“どのようにか”選択する。

人は、この地上に存在する極めて多くの種類の“食べられる物”の中から、自分の社会で“食べ物”であると認めている物を、“どのようにか”選んでいます。すなわち、文化的な理由をいろいろ付けて、「これは食べ物だ」、「これは食べ物ではない」と言って、それを信じ、安心しているのです。たとえば、牛や豚は栄養価値もあり、人類ならば誰にとっても“食べられる物”ですが、イスラム教徒にとって豚は“食べ物”ではありませんし、ヒンドゥー教徒にとって牛は“食べ物”ではありません。その理由を問われれば、宗教上の決まり事や、その考え方が生まれた歴史的な背景などを、長々と話さなければなりません。そして、その話は文化的なものではあっても、自然科学的なものではありません。人間にとって、科学は非常に大切なものです。しかし、生きているということは基本的には文化的なものに頼っています。言うまでもなく、その支えの多くは価値観や宗教観などといったものです。

ある物を“食べ物”として認める根拠には、味や香り、食べやすさ、などが挙げられることもありますが、身分、素性、性別、その場の状況なども、選択を左右する大きな要素となります。栄養も大切ですが、何かを“食べ物”であると定める基準は、まず、文化基準が先行します。

なお、“食べ物”に関しては、“素材”となる物の多くが、すでに過去数千年にわたって、人間が改良という形で“どのようにか”手を加えてきたものであることも忘れてはなりません 。

2. 素材を“どのようにか”入手する。

2つの異なった土地で同じものを“食べ物”の素材としているとしても、その素材の入手には、違いが見られることが普通です。たとえば、米を食べる地域でも、水田、陸稲(おかぼ)、バラ蒔きというように、その栽培方法が異なるので、刈り入れの方法も異なります。同じ種類の魚を捕まえるにも、釣り針、罠(わな)、水をかい出すなど、様々な捕獲方法があるように、同じ国内でも地方差が多く見られます。

それのみではなくて、素材の獲得には男女のいずれかしか許されないとか、どういった身分の人物が行うのかといったような、“食べ物”には直接関係を持たないようなことが大きな意味を持っています。畑で収穫するのは女の仕事とされる社会、狩をするのは男の仕事という社会など、“食べ物”を入手するには社会的な立場にそぐう入手方法が、暗黙のうちに定められているのです。

3. 入手した素材を“どのようにか”保存する。

入手した素材をその場で食べるということは、生活の中では、ほんの一部を占める行為です。普通は、何らかの容器、道具、場所、時間などを使って、素材は保存されます。ここで言う“保存”というものが必要とする時間は、長短様々あります。素材が新鮮なうちにということで、わずか数時間だけというものもあります。そうかと思うと、何ヶ月も、時には何年もの保存が重視されるものもあります。そうした時間のかけ方は、味作りが目的になっている場合が普通ですが、その社会が置かれている自然環境の都合で、必要に応じてというものもあります。素材によっては、周囲の光の明るさ、暗さ、湿気、乾燥など、素材を保つ場所と外界との関係によって、保存の仕方が定められているからです。

また、家畜の飼育までをも素材の保存という話題に含む場合は、話は大変大きなものへと広がってしまいます。

4. “どのようにか”変換する。

素材を“変換する”とは、普通の用語で言えば“料理する”ということです。すなわち、“食べ物”の素材は、何らかの形で、“どのようにか”料理されます。料理の基本は、“時間”、“熱”、“変形”という3つの要素に支えられています。また、この3つは、如何なる場合でも溶け合っているものであり、このうちの1つだけを使って料理するということは出来ません。

“時間”とは、素材をサッと揚げる、ゆっくり焼く、グツグツ煮る、何週間も寝かすなど、料理にかかる時間のことです。

“熱”とは、素材を冷やす、暖める、常温を保つ、料理中に熱を変化させる等、料理に付きまとう熱のことです。

“変形”とは、切る、叩く、捏ねる、くっつける、混ぜる、飾る、などの操作を素材に加えることです。料理といえば、すぐに思いつくのが変形です。

料理は、素材とこの3つの要素の組み合わせで、何万という種類のものが出来上がります。

5. 料理された物を“どのようにか”食べる。

料理された物だけでは、“食べ物”にはなりません。それを食べてみて初めて“食べ物”として成立するのです。世界の何処に行っても、料理した物に直接的にかぶりつくという行為は、非常に特殊な場合を除いては見られません。料理を食べるには、食べるための道具(箸、ナイフとフォーク、茶碗、グラス、など)、食べる時間(時刻や所要時間)、場(レストラン、家庭内、屋外など)、複数の人がいる場合は食べる順序、といったものが必ず付随します。そして、“食べ物”は、こうしたものと違和感なく“そぐう”物であることが期待されるのです。

また、物を食べるには、食べ方というものがあります。すなわち、人は“食べ物”を“どのようにか”食べるのです。この種の行為は、社会的に高いとされる地位にいる人物には、特に型にはまったものが要求されます。高貴な人は、期待されるテーブル・マナーから外れることは難しいのです。

また、“場”の選択というものもあります。何かを食べるのは何処でも構わないように思えますが、実は、“食べ物”には、それを食べるに“そぐう”場所というものが大体において定まっています。食べるものの種類によっては、その“場所”は、かなり意図的に“どのようにか”選ばれます。たとえば、一家で食事をする場合は、父親の座る場所、母親の座る場所、子供たちが座る場所が定まっています。そうしたことは法律で決められているわけではありませんが、慣習としては守られています。また、常連として入るレストランや喫茶店では、自分がいつも座る居心地が良い場所というのは、定まっているのが普通です。

“場”の問題は、それだけでは終わりません。どんなに美味しいとされるものでも、暗闇の中で独りでこっそり食べたならば、どうでしょうか。飲食の“場”には複数の人間がいるというのが、普通のことですが、そのときの人間関係というものは、想像以上の意味を“食べ物”に与えます。

誰と何処で“どのように”食べるか。そのことが、食べることと人間関係とを共に結びつけます。食べることは“コミュニケーション”の潤滑油でもあるのです。

以上のように、“食べ物”は、ごく簡単に見るだけでも、それを“どのように”
 選択するか
 入手するか
 保存するか
 変換(料理)するか
 食べるか

といったような、人間の“食べ物”への“かかわり方”が何重にも重なって成り立っているのです。すなわち、食べることは“文化”そのものであるのです。このことは、複雑な操作を経た高級料理でも、一山百円というような安物であっても変わりません。

この地上のどこかの地方で生活する原始的(?)な人々が、目につく木の実や生きている虫やトカゲ、ヘビなどを手当たり次第に口に入れるといった場面が、時々、テレビなどで放映されます。それは正しい記録ではありません。まず、“なんでも食べる”などという人間集団は世界に存在しません。必ず、手にしたものが“食べ物”であるのか、そうではないのかといった判断がなされています。その次に、その素材には何らかの操作、すなわち味付けや食べ方といった“かかわり”が見られるのが普通です。

さらに、そうした画面に出てくるのは、多くの場合、その人々の日常的な食行動ではありません。日常の食事とは異なった“遊び”としての行為なのです。それは、わたし達が、道端の木になっている柿の実を、ちょっとちぎって口にしてみるという行為と同じです。この場合も、その柿は、日本では“食べ物”の一種であることが前提となっています。さらに、食べる前には、その柿の皮を服やズボンで拭いてから食べるのが普通ですが、そうした行為は、すでに“どのようにか”という文化が働いているのです。

次回は、“食べ物”は、“コミュニケーション”であるということを、話してみたいと思います。

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。

主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。

また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。

第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。

また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。