食のエッセイ

”食べられる物”と”食べ物” 第3回

現実の世界で見られる例をあげましょう。たとえばインドのある地方では食料不足で、人々は窮地に立たされています。その事実を知って、日本から牛肉を何トンも救援物資として送ったとします。しかし、そのようなことでインドの人々は喜ぶでしょうか。とんでもないことです。日本に対しての恨みが残されるだけでしょう。何故ならば、インドでは圧倒的な数の人々の心を支えるのはヒンドゥ教ですが、その宗教では、牛は“食べ物”ではないのです。インド人も人間の一種です。ですから科学的に言えば、牛肉は体が弱っている人々には栄養を与え、元気を回復することに役立つことは明らかです。しかし、だからといって、インドの人々に、牛肉を食べろというのは、信念を捨てろということと同じです。そのようなことが簡単に出来るずはないのです。また、イラクは政情不安で、食料に困っている人々が沢山います。だからといって、日本から豚肉を何トンも援助物資として、送ることは出来ません。その行為は、インドに牛肉を送るのと同じです。ご存じのように、イスラム教では、ブタは“食べ物”ではないのです。ブタを食べることは、宗教上、厳格に禁じられているのです。

この種の話は、わたしの経験では、意外なほど多くの人が、インド人はどうかしている、道端にウロウロしている牛を食べれば良いのにとか、イラク人はトンカツの味を知らないのではないか、もっと科学的な知識を住民に浸透させるべきではないかとか、簡単に片付けてしまうことに気づきます。そこで、日本での場合を例に同様の話をしますと、今度は単なる冗談だと取られてしまいます。

しかし、たとえば大地震が東京を襲い、何百万という人間が食料難に陥ったとき、どこかの国からバッタやクモ、タンポポやペンペン草、粟や稗(ひえ)の類いを、緊急援助だといって何トンもドッと送ってきたとすれば、人々はどんな反応を見せるでしょうか。多くの人は、馬鹿にするなと怒るに違いありません。それらを送ってきた人々の善意などは、問題にされません。食べ物は人体に影響を与えるのみではなくて、世界情勢をも左右するのです。そして、世界中、どこに行っても食べ物の恨みは怖いのです。

“食べ物”は、極めて“文化”的なものなのです。既にある素材に頼る場合は言うまでもありません。新たな素材、新たな調理方法の食料開発であっても、単に科学的に認められる安全素材や栄養の面だけに頼るものであったならば、社会は認めません。素材の種類から色、形、匂い、宗教観、道徳観などにいたるまでの判断要素が組み込まれているということです。

今回は、“文化”という語を何度も使いましたが、それでは“食べ物”は“文化”であるということは、一体どういうことなのかを次回にお話ししたいと思います。

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。

主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。

また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。

第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。

また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。