食のエッセイ

コーヒーの話

酒、たばこ、コーヒー。こうした嗜好品が、日常生活の一部となってしまっている大人たちは、日本にも多くいます。しかし、当人が日常的に接している酒、たばこ、コーヒーの由来、製法、飲み方の作法、といったようなことに深い関心を持っている人はあまりいません。目の前に出される物を、そのまま受け入れるか、せいぜい自分が好む銘柄の名を言って選ぶだけです。

ところが、なかにはその道の通(つう)と呼ばれる人びともいます。それも、マニアを超えたマニアではないかと思われるような人物に出会うこともあります。特に、ワイン、ウイスキー、ブランディー、焼酎、日本酒、葉巻タバコ、コーヒーなどとなると、素人(しろうと)は、生半可なことは言えません。

日本では、最近ではちょっとした規模の町にはワイン専門のバーが見られるようになりました。そうしたワイン・バーでは、店によると、適当なワインをたった一杯飲みに来ただけなのに、そこの主人によるワインの能書きと蘊蓄(うんちく)を10分以上も講釈された上に、飲み方まで注意されて、「まったく、まいりましたよ。ワインは難しいんですね」とこぼす人もいます。

その点、喫茶店でコーヒーを飲むのに、難しさを感じると言う人は、普通はいません。出されたコーヒーが美味しいか不味いか、値段が高いか安いか、店の雰囲気はどうか、といったようなことが話題になるぐらいです。店の主人が、一般の客にコーヒーの知識を問いただすなどということは、普通はないでしょう。通(つう)人は、通人同士で話し合うということになります。

通人のなかには、コーヒーに関わる知識を、他人に紹介することを生業にする人々もいます。それは当然のことで、そういう人びとが書く記事のお陰で、海外旅行で訪ねる国での楽しみが増すということもあります。「コロンビアは大味で淡白だ」、「ブラジルは酸味が強い」、「ジャマイカのブルーマウンテンは、酸味、苦味、ともに程よくバランスが取れている」、「ハワイのコナは、上品で最高だ。酸味もコクも申し分ない」、「でも一般的には、低地より高地で採れた豆の方が、質が良いとされていますよね」などと、勉強好きの人びとの話題は尽きません。わたしはアフリカやパプアニューギニアと長年にわたって縁があるので、エチオピアのコーヒーを始めとして、ザンビア、ブルンジ、ウガンダのコーヒー、最近は日本でも普通に見られるようになったケニア産、タンザニア産のコーヒーには親しみを感じます。アフリカのコーヒーや、パプアニューギニアのコーヒーに、もっと多くの人びとが興味を持ってくれたらとさえ思います。

そういえば、日本では長い名前の外来語の単語を縮めて、ブルーマウンテンを“ブルマン”、タンザニア・コーヒーのキリマンジャロを“キリマン”などとしていますが、それは本国の人からみたら妙に感じることになります。“ブルマン”は、“ブルー”と“マウンテン”が別の単語であることは、誰でもが分かりますが、“キリマンジャロ(Kilimanjaro)”という単語の切れ目は、正しくは“キリマ・ンジャロ(Kilima njaro)”なのです。日本語には“ん”で始まる単語はありませんが、アフリカの言語では“ん”で始まる単語は普通なのです。

日本で出ているコーヒー関係の文献をいろいろ眺めて見ますと、世界各地を歩いて、行く先々の町で著名なコーヒー・ハウスを訪ねたり、その土地の特色があるコーヒーを試し飲みして歩いたという人が書いた文章には、奇妙な間違いが少なからず見つかります。特に間違いが多いのは、地名や固有名詞、それから記事のなかに臨場感を持たせるために書き込んだ会話のセリフの表記です。おそらく、現場で当人が実際に耳で聞いたことではなくて、すでに誰かが書いた記事に見えるものを、著者がそのまま借用しているか、または現地で買ってきた案内書を読み違えているからでしょう。そうした間違いは、葉巻タバコやワインの場合は、ほとんど見つかりませんが、コーヒーの場合には、しばしば見られます。

たとえば、日本に“八浜町(はちはまちょう)”という場所があるとしましょう。その土地を実際に訪ねたというフランス人がいて、その人が八浜町について話す時に、その土地の人びとは町の名を“アシアマショ”(フランス語はhは読まず、chi は“シ”、cho は“ショ”となるので、”hachihamacho”と書いてある名称をこう読んでしまう)と呼んでいると言ったとしたならば、その人はその町を訪ねたことは確かだとしても、その知識は文献を参考にしたことは明らかです。

コーヒーの話には、アラブ諸国のことがよく出てきます。「コーヒー・ハウスに入ると、店のイシャクという人物が“アーラン・ウ・サーラン”と言って歓迎してくれた」というような記述を目にすることもあります。それは、“Ishak”という人物が店の入り口で“Ahlan wa sahlan”と言った、と書かれている英語の本の記述を見て、日本語の話者である著者が適当にローマ字読みに置き換えたものなのでしょう。写し間違いも生じたのかもしれません。しかし本当のところは、その店の人物の名前は、“イスハク”で、彼は「アフラン・ワ・サフラン(ようこそ)」と言ったのです。現場で実際に聞いたことならば、どんなに聞き違えても、イシャクとかアーランのようにはならないはずです。

ところで、コーヒーの話に戻りましょう。

まず、わたしはコーヒー通でもなく、ましてやマニアでもありません。ただ、半世紀以上にわたって、世界の数十の国での自分の居住地や、旅行先の滞在地のコーヒー屋にせっせと通い、そこで本を読んだり、原稿を書いたりして過ごしたという経験があるだけです。コーヒー愛好者というわけでもなく、言ってみれば、“コーヒー屋”愛好者とでも言えそうな人間です。というわけで、私の場合はコーヒーそのものというよりは、店の雰囲気で選んでしまうのです。

何十年か前の東京には、クラシック音楽だけの名曲喫茶、ジャズの専門店、ラテン音楽の専門店など、コーヒー一杯で何時間も居座っていることができる店がありました。しかし、近年では、音楽の著作権上の問題や、店の経営上の都合から、そういう店はほとんど消えてしまいました。今は、巨大な組織に支えられた世界規模のチェーン店の時代となったのです。

そのなかの一つに、アメリカのシアトルで1985年に開業した有名店があります。アメリカでは、大都会の特別な店を除けば、コーヒーは食堂で飲むお茶のようなものですから、コーヒーだけを出して商売するという発想は普通ではありませんでした。しかし、シアトルで開いた小さなコーヒー店は、1996年にはアメリカとカナダだけで支店は1,000店と膨らみました。同じ年には初めての北アメリカの外の土地の支店を東京に作り、そこで大成功を収め、今では47の国に4,500の支店を持つようになったと言うのですから、コーヒー屋などと侮ってはならないのです。

わたしはその店のコーヒーを、世界各地で飲んだことがあります。アメリカ、カナダ、日本などの各地は勿論ですが、台湾や中国、アラビア半島のドバイ、ドイツのベルリン、シンガポール、オーストラリア、フランス、チェコなど、そうした場所の店を通して得た様々な思い出があるというのも楽しいものです。

その店は、各国でその土地の客が好みそうな店造りとスナックなどに工夫がしてあります。その点が、世界制覇の先輩であるマクドナルドのように、基本的には世界中同じ造りの店、提供する飲食物も同じ物というのとは違うところです。

コーヒーと言えば、やはりアラブ諸国には特色のある味と独特の雰囲気の店があります。ただ、何十年も前には各地に見られたような、いかにもアラブ風の装飾品に囲まれた部屋で、絨毯(じゅうたん)の上に座って濃いコーヒーを飲むというような店は、外国人の観光客向けの所でしか見られなくなりました。しかし、コーヒーそのものの味は昔通りのものが味わえます。

イスラム教徒が主体であるアラブ諸国では、コーヒー店に入ると、そこに坐っているのが男ばかりなのが少々異様です。店の外に並べてあるテーブルにコーヒー茶碗を置いた男たちは、そろって立派な髭をたくわえています。彼らの表情は、誰もが哲学者風でもあります。そういう男たちが、目の前の道路を行き来する女性の姿を、申し合わせたように一斉に目で追いかける。それはまるで、テニスの試合を見る観客がプレイヤーが打ち出すボールを右に左に追いかける視線の動きそのままで、思わず笑いがこみあげてきます。

現在の世界で広まっている非アルコール飲料は、わずか三種類しかありません。そのうちの一種類は植物の葉の利用(日本茶、中国茶、紅茶、など)、他の二種類は豆と葉の利用(コーヒーとココア)です。そのうちのコーヒーを、世界で始めて飲料としたとされる場所はアラビアで現在のイエメンと呼ばれる所だとする説と、現在のエチオピア国のカッファという地方だとする説があります。カッファ説は、コーヒーという名称との関係で、いかにもそれらしく見えますが、実際のところは完全に証明されたとは言えないようです。アラビア語には、酒の一種に“カハワ(ワインの一種)”というものがありますが、コーヒーは“コーヒー豆のカハワ”から“カハワ”の方だけが残ったとする説もあり、その説の支持者も多くいます。また、この話題と、コーヒーを生み出す植物の原産地を巡る説とが一致するとは限りません。

ちなみに、コーヒーの故郷とされるアラビアやエチオピアなどでは、飲み物となったコーヒーと、その素材である豆とは、名称が異なっています。豆は“bunn(ブン)”,またはそれに近い単語で、飲み物の状態になっているものは“kahawa”、またはそれに近い単語で表します。それは、田んぼに生えているものも、刈り入れて実になったものも、料理されて食器に盛られたものも、英語ではみんな同じ“rice”ですが、日本語では、それぞれ“いね”、“こめ”、“ごはん”、皿に盛られてスプーンなどが添えてあれば“ライス”などと、別々の単語で表現するのと同じようなことです。

アラビアでコーヒーが飲まれるようになったのは、10世紀より前の時代となるでしょうが、本格的にコーヒーが飲まれるようになったのは15世紀半ば頃からとされています。その後、コーヒーという飲み物の存在は、アラビアの外の国々にまで伝わったようです。当時の中東やアジアでは、イスラム教徒のマッカ(現在、“メッカ”は“マッカ”と表記します)巡礼者が多くいて、その人々を通じてコーヒーが世界に広く伝わったこともあったのです。その伝播に深く関わったのは、現在のシリア、イエメン、トルコ、エジプトなどでした。

アラビアでは、コーヒーから得られる利益を守るために、生きているコーヒーの木を輸出することはなく、火にあぶったりして発芽能力がなくなっている豆のみを他国の人びとに分け与えたようです。生きている豆が運ばれ、栽培が他国で始められたのはインドにおいてで、それは17世紀末とされています。

今ではコーヒーの消費では世界の中心地となっているヨーロッパの場合は、イタリア、オランダ、ドイツなどが16世紀の後半、17世紀の前半からセイロン(現在はスリランカ)などのアジア諸国で栽培を始めています。紅茶の人気が高いイギリスのコーヒー栽培は、やや遅れて19世紀の半ば、インドで始められました。いずれの場合も、ヨーロッパでは栽培が難しかったので、ヨーロッパの列強が当時から勢力を伸ばしていた東南アジア諸国が、その栽培地として利用されることになったのです。

コーヒーは、その刺激性の強さで、世界に広まる前から薬品の一種とされていたというのは当然と思えます。イスラム教徒が圧倒的に多いアラビアでも、コーヒーは、祈りの時の眠気を覚ます効果があるものとして飲まれました。しかし、そのことを巡って、コーヒー弾圧という事態が出てきました。イスラム教徒のなかに、その刺激性が反宗教的な行動を導くとする指導者が出てきたのです。16世紀の初めのころのことでした。

その後、二度目の弾圧が16世紀の30年代の半ばにエジプトのカイロで起こりました。今度は、イスラム教の中心地で、コーヒー良薬説に立つ人びとと、コーヒー悪薬説に立つ人びとの対立から始まったものでした。勿論、その判定基準は、イスラム教の教えから見てのものであり、健康に良いか悪いかということを根拠にするものではありません。

日本にコーヒーを紹介したのは、17世紀初頭までには九州の長崎と交易関係を築いていたポルトガルや、それに続くスペイン、イギリスだとする説がよくありますが、そうではないと思えます。その時代には、ポルトガル本国ですら、コーヒーは良く知られていない物だったからです。

実際の記録は、18世紀末に、オランダ人との間になされた売り買い帳簿に見られるものが、最も古いもののようです。そこには、<鉄製小箱入りの“コヲヒ豆”>という書き入れが見られます。コーヒーに関しての記録は、その時代からオランダ人との関係を記録する文書に見られるようになります。

日本語の歴史に興味を持つ人ならば馴染みがある古い辞書、オランダ人の手による『長崎ハルマ』の改訂版(1855)は、日本人によって作られましたが、そこにはコーヒーのことが次のように出ています。

 

koffij  骨喜  哥兮  珈琲  架非


古い時代には、“コーヒー”という語を漢字で表記するには苦労したようです。以上のような表記の他にも、“枷棑”、“楜棑”などという見慣れない漢字による表記が見られます。

日本にコーヒーが一般的な商品として出現するのは、明治時代になってからです。舞台は横浜に移っていました。1880年代に入ると、時代の先端をゆく西洋文化を取り入れて、社交界の花としての姿を競う人びとの間に、コーヒーが入り込んだのは当然のことでした。そして、特定の家柄や職業身分とは関係がない人びとの憧れも手伝って、コーヒーは世間にも広がりを見せてきます。勿論、その広がりは、従来の日本の文化のひとつである“茶”とは違って、いわゆる知識人と呼ばれるような人びとに支えられたものでした。

 

その頃、東京・下谷の西黒門町に、立派なコーヒー店を作った人がいました。明治21(1888)年のことで、店の名前は「可否茶館」です。店主となったのは鄭永慶(てい・えいけい)という人物で、名前から推測すると中国人のように見えますが、『国性爺合戦』で知られている鄭成功の血を引く日本人でした。大変な秀才で、日本語、中国語、英語、フランス語を理解し、17歳でイェール大学に留学した経験を持つ、当時としては異例の経歴を持つ人物でした。しかし、病気で大学を中退、帰国後は日本式の上流社会の仕組みや、その類の人びとの生活態度とは性分が合いませんでした。振り返って見れば、日本最初のコーヒー店の創始者として歴史に名を残す人物になったのですが、当人から見れば、生活は悲惨なものでした。コーヒー店を開くなどというのは時代が早過ぎました。開店後、わずか一年数ヶ月後には借金もかさみ、二度目の結婚後、妻の死などで家庭は崩壊し、結局は逃げるようにしてアメリカに再度渡りましたが、シアトルで病死しました。なんと、37歳という若さで終えた生涯でした。

この「可非茶館」は、日本最初のコーヒー店であると紹介する記事が幾例か見られますが、実際にはそれ以前にも幾つかの店が東京、横浜、神戸に存在していたようです。そこで、「可非茶館」は、日本で最初の“本格的”なコーヒー店とするのが正しいのでしょう。ついでですが、この「可非茶館」のメニューには、フランス、ドイツのワイン、キューバ、フィリピンの葉巻タバコまでが入っていたようですから、その時代感覚の早さには驚きます。その当時のコーヒー店は、“カフェー”と呼ばれたりしていましたが、“カフェー”はアルコールを出す店となったり、雰囲気が違うものとなったりしてきました。それが“喫茶店”という名で呼ばれるようになったのは、明治25(1892)年に入ってからです。

コーヒーは、現在の日本では、喫茶店が出すモーニング・サービスには付き物となっています。早朝から夜中まで、コーヒーはいつの時刻に飲んでも違和感はありません。

しかし、コーヒーの本場であるアラブ諸国でも、欧米のカフェでも、日本の喫茶店でも、コーヒーは仲間同士の語らいの場、世間の動向を知る場、商売の相談をするための場となっています。そして、コーヒーを飲む場所は、夜のイメージが強いものです。

エジプトでナイル川の流れが見えるテーブルに席を取り、夜風に吹かれながらコーヒーを飲んでいると、昔、同じような場所で、薄暗いランプの下に座り、ターバンを巻いた髭面(ひげづら)の男たちが、水タバコをたしなみながら、哲学的な表情で何事かについて話し込んでいる。そんなコーヒー文化の初期の光景が目に浮かんできます。

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。

主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。

また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。

第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。

また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。