食のエッセイ

ウナギの話

夏の半ばを過ぎ、家の片付けをしていたら、数年前に韓国の知人から土産にいただいた革製の財布を見付けました。わたしは金銭をポケットに直接入れているので、財布の類は使いません。その財布は積んである本の間に紛れたままになっていたのです。

皮はウナギ。柔らかくて感触も良い。茶色い染めも落ち着いていて、気に入っています。

魚の皮を細工して何かを作る。そう言うと驚く人がいるようですが、かつて北の国々ではサケ、マスなどの皮は、衣類や履物に利用されてきました。しかし現在では、世界中を見渡しても、魚の皮の利用はほとんど見られません。人間は、魚を皮ごと食べてしまうからです。韓国では、財布、ベルト、カバンから靴、上着の類まで、ウナギ皮の製品を見ることが出来ます。ただし、誰でもが使っているというわけではありません。やや高級品というところでしょうか。

そんなウナギの財布を見ているうちに、今回は食べ物としてのウナギについて書きたくなりました。

“土用の丑の日”は過ぎてしまったので、ウナギの話は時期はずれではないだろうかと思う人がいるかも知れません。しかし、わたしの話は日本に限られたものではなくて、地球上の人類全体を対象とする壮大なものであると、こんな自負を持って話を進めれば、ウナギの話には特定の季節というものはありません。

たとえば現在のアメリカでは、一般的にウナギを食べる習慣が失われてしまっています。はっきりした理由は分かりません。ただ、ヨーロッパから北アメリカの東部への移住が始まった頃の移民たちは、ウナギをよく食べていたことは事実のようです。しかし、南北戦争(1861~65)以後、ウナギを食べるという習慣が衰えてしまったのです。とはいえ、ニューヨークのイタリア系移民の場合は話が異なります。彼らにとって、ウナギはクリスマスの夕べの料理には欠かせない素材なのです。祖国イタリアには、クリスマス・イブの夕食としては、七面鳥のような鳥や、牛、豚のような家畜の肉を食卓には出さずに、七種類の魚料理を出す風習を持つ地域があります。その際、場合によっては魚の種類が異なることがあっても、カピトーネと呼ばれる大ウナギだけは、欠かせない素材だとされているのです。そのクリスマス料理の例からすれば、夏の終わりのウナギの話は、むしろ時期が早すぎると言えるかも知れません。

わたしの周囲には、ウナギを食べるのは日本人だけだと思い込んでいる人が多いようです。しかし、ウナギを食べる人びとは世界中に存在します。ウナギが手に入るにもかかわらず、それを食べることがないという人びとの代表は、ユダヤ教の信者です。ユダヤ教では、数多くの生き物を食べてはならないものと定めていて、ラクダ、野ウサギ、ウマ、ロバ、などなどの四足獣以外に、海のものであっても川のものであっても、ウロコやヒレがない生き物は食べてはならないことになっているのです。そのユダヤ教徒を除けば、ほぼ世界中で、ウナギは美味しい食べ物とされて人びとに好まれています。料理に利用されるのは成魚と稚魚で、稚魚の方はシラスウナギの名で知られています。ただ単に“シラス”と呼ばれる魚には、ウナギ以外にも、カタクチイワシ、アユなどの稚魚が含まれます。

ウナギを食べる風習を歴史的に探るとなれば、文献に頼ることが多くなります。まず、最も古い記録はギリシアにあります。紀元前350年ごろのギリシアを初めとし、その後のローマの記録には、ウナギが食べ物として大いに好まれたことが記されています。日本では、万葉集にウナギを素材にした作品が見られます。現在の世界では、日本、中国、朝鮮半島などの東アジア諸国は勿論、ヨーロッパではデンマークなどスカンジナビア諸国、オランダ、ベルギー、ドイツ、フランス、スペイン、イタリア、ハンガリー、ブルガリア、ポーランド、イギリスなどの国々で、ウナギは大量に消費されています。

ウナギを食べるのは、ウナギが採れる地域の人びとだけに限りません。いや、ウナギが採れる土地でも、現在では多くの場合、人びとが口にするのは外国から輸入されたか、または養殖されたウナギです。外国からウナギの稚魚、すなわちシラスウナギを輸入して、自国で大量に養殖するわけです。そうでもしなければ、自国で採れるウナギはたちまちのうちに絶滅してしまうことでしょう。実際に、今では、日本、台湾、中国を始め、ヨーロッパの国々でも、次々と大型の養殖施設を備えるようになってきています。

ウナギの生態は、それを美味な食べ物とした古代ギリシアで興味の対象となったのは当然と言えるでしょう。ウナギは偉大な哲学者として後世に名を残した学者たちによって研究されました。特に、ウナギは何処で生まれ、どのようにして育つのかということは、学者たちの興味を大いにひいたのです。当時の偉大な学者を代表する一人であるアリストテレスは、ウナギをいくら調べても生殖器官が見つからないので、それは泥の中にいるミミズから自然に発生する珍しい動物だと結論をつけました。日本にも同じような発想があり、山間部には「山芋(ヤマイモ)変じてウナギと化す」という伝説があったようです。また、古代ローマの偉大な博物学者である大プリニウスは、ウナギが岩に身をこすり付けると皮が剥がれる。その皮の破片からウナギが生まれるという説を出しました。二世紀になると、ギリシアの学者はウナギ同士が体をこすり合うと、ぬるぬるした粘液が出る。それがウナギに変身すると説きました。その後、何世紀もの間、ウナギの誕生に関しては、現在から見れば珍妙極まりない学説がいろいろと立てられたのです。しかし、笑ってばかりもいられません。実は、ウナギの生涯は、最近まで正確には分かっていなかったし、今でも、その一部は推論でしかないのです。

ウナギに本格的な科学の光を与えたのは、意外な人物でした。それはジクムント・フロイト、誰もが知っている精神分析学の父と呼ばれる人物です。彼は精神分析医として著名になる前、すなわち医学校で学んでいる頃、イタリアの研究所でウナギの精巣を見つける研究に本格的に取り組んでいたのです。彼の発見は、ほぼ正しかったようです。しかし、ウナギの生殖に関する研究の、それ以上の発展は、第一次大戦の後、つまり、1914年以降にその面の研究に取り組んだ別の学者たちの努力によるものとなりました。

実際、ウナギの生涯は神秘的でさえあります。長年にわたる努力の結果、研究者たちは驚くようなことを見出しました。ウナギの誕生の地やウナギが稚魚の時期に過ごす場所は、人間が食卓で見る成長したウナギが採れる場所から、二千キロも三千キロも離れた遠い海域の深部なのだというのです。アメリカやヨーロッパ諸国の川、湖、沼、池などで採れるウナギは、すべて大西洋の真ん中辺りの海域に当たるサルガッソー海の深部で生まれ、そこで育つということなのです。他方、日本、韓国、中国で採れるウナギは、すべて太平洋の真ん中の海域の深部で生まれ育つらしいということも分ってきました。そのことは、ウナギが生まれてから稚魚の時期までを過ごす場所と、わたし達が普段見るウナギに成長してから生息している地とは、まったくといってよいほど異なった場所だということでもあります。したがって、日本産も中国産も韓国産も、成魚の捕獲場所が異なるだけのことで、元々は同じ場所の産ということになります。

ここで、驚くべきウナギの生涯を簡単に振り返ってみることにしましょう。まず、ウナギは現在も人間の手を借りて産卵させることは出来ません。人間が孵化させることも出来ないのです。その技術は、まだ開発されていません。養殖ウナギとされているのは、ウナギの稚魚、すなわちシラスウナギを世界の何処かから輸入してきて、それを育てているのです。ヨーロッパ諸国の場合、養殖用のシラスはアメリカやスペインなどから輸入します。かつてはアメリカ人の多くが食料としていたウナギは、現在のアメリカ国内では一般的には需要がありません。アメリカ国内では、中国を始めとするアジア系、それからイタリア系、フランス系などのヨーロッパ系移民社会を除いては、ウナギを食べる人がほとんどいなくなってしまったからなのです。ただ、アメリカの一部の地域――その多くは東部の非常に狭い地域――で採れるシラスウナギは、大量に国外に輸出されています。日本の場合は、台湾、中国は言うに及ばす、遠くスペイン、フランスあたりからもウナギの子供は飛行機で運ばれてくるようです。養殖の技術は日本のみならず、台湾、中国でも進歩、普及し、大量のウナギの養殖が行われるようになっています。

話が寄り道をしましたが、大西洋、太平洋の真ん中の海域の深部で生まれたウナギは、その辺りで一、二年過ごします。それから各々の種類によって定まった国の定まった川や湖に向けて二千キロ、三千キロの道のりを辿る長旅を開始します。二年も三年もかかる旅だということです。皆が知っているウナギの姿は、その旅を終えた後の姿なのです。ウナギは、辿り着いた川や湖、沼や池の泥の上で数年から十数年ほども生活をした後に、子孫を残す体の準備ができると、産卵のため再び長い長い旅路につきます。そして、アメリカやヨーロッパ系のウナギは大西洋、日本や中国系のうなぎは太平洋の真ん中の深海の故郷に戻り、雌が産卵し、雄が受精させ、子孫を残して生涯を終えるのです。

ウナギの生涯には、様々なドラマがあります。故郷の海に帰る際には、身体も変化する。ただひたすらに泳ぎ続ける長旅の道中では、何も食べないので、胃などの内臓はそれに耐えるように変化します。体の色も変わります。それまで住んでいた川や沼のような浅い水底の気圧とは違って、深海の気圧はその数十倍にもなるので、それに耐えられる体になります。そうした変化はすべて、子孫を残してわが身は滅びるということだけを目的として実現されるのです。人間の方は、ウナギの側のそのような深い事情には関心もなく、ただ美味しければ結構というわけです。

ウナギ料理は、国によって非常に異なっています。たとえば蒲焼(かばやき)を基本料理とする日本人から見たら、オランダの“ウナギの燻製”、ベルギーの“ウナギのグリーンソース煮”、ドイツの“ウナギのゼリー寄せ“、イタリアの“ウナギのワイン煮”などという料理を見ると、「どうして、あの美味しいウナギを煮てしまったり、バターを付けてしまったりするのだ。味がめちゃめちゃになってしまう」などと言って嘆くことになります。それは、別の国の人間から見たならば、「皮が焦げるほどウナギを直火に当てて焼いてしまうなんて、日本人はウナギの味が分からない」と残念がるのと同じようなことです。

現在、ウナギ料理屋に行きますと、様々な名の料理をメニューに見ることが出来ますが、日本で最も一般的なウナギ料理はカバヤキです。その名は室町時代の初期の文献にも見られるというのですから、カバヤキはその時代以前から存在した料理だと考えられています。漢字では蒲焼、樺焼などと書き、古い記録には椛焼と書かれているものもあります。夏にはウナギを食べると夏痩せが避けられる、精が付くということは、万葉時代から知られていたようです。

日本の蒲焼は、ウナギを炭火で焼いた色が紅黒く、蒲(カバ)の木の樹皮に似ているから“カバヤキ”と言うとか、ウナギを焼くと、その美味しそうな香りがたちまちのうちに辺りに広がる、すなわち香りが疾(はや)く発散するので“香疾焼(カバヤキ)”と言うなどとする俗説があります。あるいは、ウナギ料理は口から尾まで竹串を通して塩焼きにしたものですが、その形が“蒲(ガマ)の穂”に似ているので“蒲焼”と表記したところ、その漢字は“カバ”とも読めるので、いつしか“ガマ”が“カバ”に変化してしまい“カバヤキ”と呼ばれるようになったという説もあります。“椛焼”の場合は、焼いたウナギの色合いが、秋になると美しく色づく椛(カバ、モミジのこと)に喩えられるからだという説も見られます。この説については、椛ではなくて、桜の木の皮の色だというものもあります。民間語源というものは、大体がこじつけなので、これらの説のどれが正しいのかは、わたしには判定が付けられません。ただし、ウナギという名前の方は、古い文献では“ムナギ”となっており、それは“胸黄(むな・き)”、すなわち胸が黄色いというところに起源があるとするのは、どうやら事実のように思えます。

古い時代からウナギ食の記録があるとはいえ、その当時の調理法は正確には分からないようです。ただ、関西地方で始まったウナギ料理は、高級な食べ物ではなくて、場末の食べ物とされていました。また、ウナギ料理は美食の対象というよりも、体に効く薬としての意味合いが強かったようでもあります。それが、江戸時代に入ってから、一般人もが美味しい料理としても食べるようになってきました。初めのころは味噌や豆油を使って付焼きにしていたものが、“開き焼き”となったのは、江戸の中期以後のこととされています。関西ではウナギは腹開きとなっていますが、関東に伝わってきてからしばらくすると、江戸ではウナギは背開きとなりました。これについては、腹開きと言うと武士の切腹を連想させるので、武士の多い関東では嫌われ、背開きで調理するようになったという説があります。また、ウナギ飯のことを、関西では現在も“まむし”と言うので、それはウナギの姿が蛇のマムシに似ているからと考える人が多いようです。しかし、実はそうではなくて、ウナギに飯をまぶすから、その“まぶす”から転じた名であるとする説もあります。そうではなくて、ウナギの最良品を“真魚(まうお)”と言い、その名の頭の一字、“ま”を残して、それを“蒸した”ものなので“ま・むし”と言うのだとする説もあります。

ウナギ飯は、現在では“ウナ丼”の名の方が通りがよいと思います。そして、ウナ丼はどんぶりで出されるものと相場が決まっているのです。そして、より上等なものは、“うな重”と呼び名を付けて、本物の漆(うるし)塗りの蓋付きの重箱で出されることになっていました。しかし、現在では、漆塗りそっくりに似せたプラスチックス製の重箱が安く手に入るので、大体の店では模造品の重箱でテーブルに登場するようになっています。また、ウナギ料理にはタレが不可欠です。このタレについては、昔は魚油にサンショウ味噌を混ぜたものを使っていたようです。現在も、ウナギ料理には粉状のサンショウが欠かせません。その起源は、サンショウには川魚の毒を消す力があるという言い伝えから始まったもののようです。その後、醤油が発明され、その味の改良に伴って味醂(みりん)醤油が使われるようになりました。タレの味加減は店の主人の秘伝となり、誇りとなり、その味は老舗と名乗る店の看板となったのです。

今回の話の初めに触れたように、日本では、ウナギと言えば“土用の丑の日”を思い出します。暦法では、“土用”は春、夏、秋、冬の四回ありますが、立秋の前十八日の夏の土用にウナギを食べると夏負けしないとされています。その風習の起源にもいくつかの説があります。特に有名なのは、江戸時代の博物学者、戯作者として有名な平賀源内(1728~1779)が、あるウナギ屋の宣伝のために、「土用の丑の日にウナギを食べると滋養になる」というようなことを書いて言いふらしたところ、それが評判となり、日本中に広まったものだという言い伝えです。江戸時代、コマーシャルが世間に及ぼす効用は、すでに絶大だったのだと思うと、人間はいつの世も変わらないものだと思います。

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。

主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。

また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。

第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。

また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。