食のエッセイ

”食べられる物”と”食べ物” 第2回

「食べられる物」と「食べ物」の違い。
この最も重要なことに関しては、今も問題にされることが少ないのが非常に残念です。
青酸カリ、砒素や、鉛や水銀は、この地上に生きる如何なる人間にとっても“食べられる物”ではありません。しかし、人間にとって“食べられる物”は、全人類に共通しています。“食べられる物”、すなわち“食べても命にかかわらない物”は、ザラにあります。米、イナゴ、イワシ、牛、から人間にいたるまで、“食べられる物”は身の周辺にいくらでもあるのです。ブラック・ユ-モア風に言えば、「人口が増えてきているので、食料難になる」などということはありません。「人間という“食べられる物”の一種が、急速に増えているだけだ。満員電車などは、食料庫みたいなものなのだ」ということになります。

しかし、“食べ物”とされるものは、時代により、社会により、大きく異なります。ある国では極く普通の“食べ物”であるものも、他の国では、それを食べるなどとは思いもよらないものであったり、気味悪くて食べる気にはならないものです。そうしたものはザラにあります。ある物については、飢饉の時のような特別な状態では、その土地では“食べ物”として認められるものとなりますが、その状態を抜け出せば、それらは途端に“食べ物”ではなくなってしまいます。話の内容をイメ-ジするには、次のような例をあげればよいでしょうか。

生きているイモムシのような物を、習慣的に食べる人々の話をすると、日本ではその人々を瞬間的に卑下したり、野蛮人扱いをするようになります。そのような“食べ物”であるとは認められないものを食べるのは、まともな人間であるとは認めたくないからです。しかし、ある種の蛾(が)の幼虫、すなわち毛虫やイモムシは、栄養学的に見ても素晴らしく、衛生学的に見ても問題なく、病理学的に見ても害になることは一切ありません。味も上々です。そして、栄養もたっぷりです。しかし、日本では、無意識のうちに、そのような物を食べるのは野蛮であることの証拠であると見なす人が普通です。

“食べ物”は、国によって異なると言いましたが、もう少し細かく見れば、同じ国でも地域によって“食べ物”の種類は異なります。現在では、残念ながらその食習慣が少しずつ消えてきていますが、たとえば日本の長野県は昆虫食が最も盛んな土地であると言えます。

“ザザムシ”(カワゲラの類)は、冬になると川の浅瀬で採集される虫で、普通は釣りの餌とされます。この虫は、土地の人々によって普通に食べられてきたのみではなく、大和煮缶詰となって商品としても売り出されているようです。スズメ蜂の子は、“蜂の子”として売り出されていますし、イナゴは佃煮にしたり、大和煮や甘露煮にしたりして、昆虫食の代表として食べられます。

日本の昆虫食に関しては、大正7(1918)年にすでに全国調査がなされているとのことを、この道の研究の大家である梅谷献二氏の本で知りました。それによりますと、日本の昆虫食は、ガ(の幼虫)の類が11種、蜂(の幼虫)の類が14種、バッタの類が10種など、55種類にもなるそうです。くどいようですが、ここでまた注意していただきたいのは、これらはゲテ物としての“食べ物”ではなくて、ごく普通の“食べ物”であるという点です。その習慣が否定される風潮は、この百年ほどの間に日本が受け入れてきた欧米諸国の文化に対する劣等観に支えられている部分も多く、わたしはなんとか消したいものだと思っています。

ついでですが、昆虫食の例として、蝉(および、その幼虫)、トンボ(および、その幼虫)、タガメ、ゾウムシ、ゲンゴロウ、カイコの蛹などから、昆虫ではありませんが、クモの類まで、それらを普通の“食べ物”とする所は、中国を始めとし、タイ、インドネシアなど、東南アジアの国々には多くあります。

人を食べる話、すなわち“食人”については、別の機会にお話しすこともあるかもしれませんが、それはさておいて、東京に住むわたしが家から駅に向かう途中、驚くほどの種類の草木や虫、小動物に出会います。そして、さまざまな形の葉や様々な色をした花が目に入ります。何十種類もの草や木が見られます。そうしたものの中に、毒がある(すなわち“食べられない物”)は、まず見つかりません。路上には犬や猫、樹上にはスズメやカラスがいます。トンボ、蝶、蠅、蚊もいます。こうしたものは、すべてそのままでも、または、すこしばかり料理をすれば“食べられる物”なのです。しかし、この土地では、それらは“食べ物”ではありません。

このことは何を意味するでしょうか。言うまでもありません。人間にとって“食べられる物”を世界中の人々が食べ始めれば、人間だけは食べないとしても、まだまだ身辺は“食べられる物”だらけで、食料危機の心配などはないのということです。生きている動植物だけではなく、それらの加工物である紙も、机も、皮ジャンパーや靴も、料理の仕方によっては美味しく食べられます。それならば、蠅も蚊も、紙も机も、食べればよいではないかという論理は、社会的に成り立ちません。先ほども言いましたように、“食べ物”というものは、生理学的に受け付けられる(食べられる)とか、食べてしまうと命にかかわる(食べられない)という科学的な話とは異なり、個々の“文化”を根拠として成り立っているものだからです。

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。

主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。

また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。

第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。

また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。