食のエッセイ

食べ尽くされたリョコウバト

このところ、日本の自給率の低下といった話題をよく耳にします。ただし、自給率といっても、その主な計算方法には、カロリーを基本にしたもの、食料の重さを基本にしたもの、生産額を基本にしたものの三種類があるようです。よく話題に上がるのは、カロリーを基本にした食料自給率で、平成19年度のカロリーを基本にした日本の食料自給率は40パーセント、残りの60パーセントは海外からの輸入に依存していることになります。これに対して、同年の主な先進国の自給率を見ると、例えば、イギリスが70パーセント、ドイツが84パーセントと、日本に比べて圧倒的に高い数字が並んでいます。さらに、フランス122パーセント、アメリカに至っては128パーセントと、自国の需要を満たせるどころか、補って余りある食料を生産している国もあります。最近では、こうした日本の食料生産状況に対して、輸入が止まってしまったらどうなるのか、日本の農業を何とかしなければ、そんな危機感を持った議論が行われる一方で、逆に、日本の人口減少などをきちんと考慮すれば、実はそれほど困ることはないのだ、といった論調の議論まで、現在、そして未来の食べ物の確保をめぐって、色々な立場からの見方が出されています。

そういう難しい話があるかと思えば、新聞やテレビには、クジラがいなくなる、マグロがいなくなる、といった話題が絶えることなく掲載され、人々の心を騒がせています。将来、日本で食べ物が無くなるかもしれない。飢えというものを知らない世代が増えた日本で、そうした話題がどれほどの切実さ、現実感を持って受け止められているのかは分かりませんが、そうした話題を目にするたびに、わたしの心に浮かぶ一種の野鳥がいます。

リョコウバト(またはワタリバト、passenger pigeon)という名を、皆さんはご存知でしょうか。学名は“Ectopistes migratorius”で、ハト目ハト科、カラバト類カラバト属に属しています。すなわちハトの一種です。かつて、リョコウバトは北アメリカの東部、特にカナダからアメリカ合衆国南部のルイジアナやフロリダに至る広い地域に生息していました。リョコウバトという呼び方は、北アメリカ大陸の北部で子育てを終えると、南部で冬を過ごすために、一年に二度の渡りをしたことから付けられたものです。

世界でもっとも美しい野鳥の絵を書いた画家であり、また鳥類学者でもあったジョン・ジェイムズ・オーデュボンという人物がいます。鳥に関心を持つ方であれば、おそらく一度は耳にした名前ではないでしょうか。アメリカの自然保護団体として知られるオーデュボン・ソサエティも、彼の名にちなんだものです。オーデュボンの代表作は、『アメリカの鳥類(The Birds of America)』という大型本で、1827年から10年がかりで完成した大作ですが、この中には、オーデュボンが各地を歩いて実際に観察し、鳥の羽の一本一本まで丁寧に描いた450種類以上の鳥の美しい絵が収められています。ビデオはもちろん、写真などもない時代ですが、その正確な描写には目を見張るものがあります。

この本に収められた中の一枚に、オーデュボンが描いたリョコウバトの絵があります。やさしい灰色をした雌が、美しい灰青色の羽と赤褐色の腹を持つ雄の口のなかに嘴を差し込んで餌を与える姿が描かれています。すんなりとした流線型の均整の取れた体、ぐっとせり出した胸、先の尖った力強い羽と長い尾羽。尾羽の先まで含めれば体長は40センチ強もあったようです。広葉樹林に大群で棲むこの鳥は、木の実や穀類を主食としていました。飛ぶのが非常に速い鳥だったようで、時速60キロから150キロ以上で飛んだというものまで、様々な記録が見られます。アメリカの大空を滑るように飛ぶその姿の美しさは、見上げる人々の心を魅きつけました。

かつてはアメリカ東部の至るところにいたこの鳥の姿を、もう生きたものとして見ることはできません。当時のリョコウバトの数は、資料によって異なりますが、北アメリカで60億とも90億とも言われるほどの数を誇りました。それは、現在の地球の人口にも匹敵する数です。その姿が、現在では地球上からまったく姿を消してしまったのです。リョコウバトは、絶滅種の一つなのです。その絶滅の原因は、人間という生き物が、膨大な数のリョコウバトを必要以上に採り尽くし、食べ尽くしてしまったからなのでした。

リョコウバトが、実際にはどれほどの数生息していたのか、正確なところは分かりません。記録によりますと、巨大な雨雲のようになって、大地を曇らせ、十数キロにも亘って群れをなして飛んでいたそうです。そんなリョコウバトを、残らず数え尽くすことなど無理な話でした。しかし、かつて地球でもっとも多くの数を誇った鳥であったことは確かでしょう。19世紀の始めには、まるで嵐の襲来のように、北アメリカの空を覆いつくしたリョコウバトの数は、60億羽とも90億羽とも言われていました。ある研究者は、リョコウバトの数は、全盛期には、アメリカに棲む陸鳥の実に25から40パーセントに達していたのではないか、と言っています。

何億羽ものリョコウバトが、一つの群れとなって空を飛ぶ。そんな光景が想像できるでしょうか。しかし、それは1800年代初頭のカロライナ州などでは、ごく普通に見られたものだったようです。オーデュボンは、その凄まじい数について印象深い文章を残しています。それによれば、1813年の秋、ケンタッキー州で、オーデュボンはリョコウバトの大群に遭遇します。広大な空一面を覆い尽くした鳩の群れが行き過ぎる際には、真昼の太陽の眩い日差しがまるで日食のときのように暗く閉ざされ、ハトの羽ばたきの音が絶え間なく続き、糞がポタポタと、まるで溶けて崩れた雪片のように降り注いだと言い残しています。その群れのハトの数を推定してみたオーデュボンは、我ながらその数字に驚いたと言っています。それはなんと、およそ11億1500万羽という天文学的な数でした。ハトが群れを成して行き過ぎるその光景は、単に鳥の移動などと呼べるものではなく、まさに鳥の大襲来であり、無数の鳥が作り出す嵐でした。そして、自然界が作り出していたこの壮大な光景は、もう永遠に再現不可能なものとなってしまったものです。

長旅には膨大なエネルギーを必要とするリョコウバトは、貪欲な食欲の持ち主でした。主に食べていたのは、樫、栗、ブナなどの木の実や、果物でしたが、その他にも、人間が栽培している穀物や他の植物も、リョコウバトの餌になりました。虫類、とくに幼虫の類は、好んで食べたようです。かつてアメリカの大地には、リョコウバトの命を支える樫や栗やブナの木などが、どこに行っても豊かに茂っていました。それが開拓の時代に入り、開拓者達が西部へと進出して行くにしたがって、薪(たきぎ)にしたり、小屋を建てたりするために、次々に切り倒していったのです。また、大群をなして飛ぶリョコウバトは農作物の害になるため駆除すべき対象であると、当時の人々は考えていました。あまりにも数が多いために、特別な装置を用いなくても、群れの中に入って棒を振り回したり石を投げたりするだけで、面白いようにハトが落ちてきました。それどころか、どれほど多く駆除しても、まったく数が減ったようには見えなかったのです。リョコウバトは、簡単に手に入る食料ともなりました。

もちろん、ネイティヴ・アメリカンの人々にとっても、リョコウバトは大切な食料でした。しかし、その利用は限られたもので、例えば、親バトを殺せばヒナが死んでしまうため繁殖期には狩をしない、ヒナを捕る場合も、矢尻のない矢で巣を下から撃ち、ヒナをはじき出して捕らえるといった、節度をわきまえたものでした。

16世紀になると、ヨーロッパから、コロンブスによって発見された新大陸アメリカに多くの人びとがやってきました。1607年にバージニアに初めてのイギリス植民地が建設されて以来100年余りのうちに、東部各地に次々と植民地が作られて行きました。1732年にはジョージア州に13番目の植民地が建設され、その13州が1776年にイギリスからの独立を宣言します。1775年から81年まで続いた独立戦争の後、アメリカ合衆国は、西に向かって領土を広げて行きます。1803年にはジェファーソン大統領がフランス皇帝ナポレオンからルイジアナ(ミシシッピ河からロッキー山脈に至る広大な領土)を購入し、1818年にはスペインからフロリダを買収します。またスペインから独立したメキシコとの戦いを経て1848年にはニューメキシコ、カリフォルニアを併合し、イギリスからは話し合いによってオレゴンを割譲します。こうして、アメリカ合衆国はその領域をすさまじい勢いで拡大していったのです。

新しくアメリカの大地に入り込んだ開拓者たちは、ハトを際限なく捕り尽くしました。ヒナを手に入れるためには、多くの巣がかけられている木を選んでその木を切り倒しました。殺し方が大規模なだけでなく、ハトで一儲けしようと、その捕獲を生業とする者も多く現れました。1850年ごろには、鉄道が敷かれ、汽車による輸送が行われるようになると、食品としてのリョコウバトは、商品として出荷されるようになります。囮を用いて網に追い込む網猟も盛んとなり、一挙に何百羽というリョコウバトが捕らえられました。中には、一日に1万羽を捕った者もいたようです。

オーデュボンは、渡りの途中のハトが、虐殺される場面にも出くわしています。その様子を彼は次のように書き残しています。
「……恐ろしい光景が繰り広げられた。数千羽のハトが、棒を手にした人々によって一瞬のうちにたたき落された。鳥たちは途切れることなくやって来て、いたるところに舞い下り、押し合いへし合いしながら黒山のように木に止まった。その重みに耐えかねて、そこここで木々が凄まじい音をたてながら地面に倒れ、どの枝にもぎっしりと止まっていた鳥を振り落とし、数百羽の鳥たちがその下敷きになって息耐えた。その有様といったら、狼狽と混乱の極みだった。すぐ隣にいる人にさえ、話しかけるどころか、どなってみても、まったく無駄だった。銃声すら聞こえず、火薬の炎を見て、始めて銃が発射されたことが分かるのだった。……ハトは拾いあげられ、山のように積みあげられた。各人が処理できるだけ集めてしまうと、残りはブタを放して食べさせるのだった」。

こうして、一日に1万、2万という大量のリョコウバトが塩漬けにされ、樽に詰められて、東部各地の都会に出荷されるようになりました。「昨日もハト、今日もハト、もうハト肉はうんざりだ」という声が、各地の食卓であがるほど、開拓者たちだけでなく、都会に暮らす人々にとっても、ハトは安価で誰にでも手に入る食べ物となっていました。

リョコウバトには、一度ねぐらを決めるとそこに戻るという習性があり、人間に何度襲われても、やはり同じねぐらに戻ってくるのでした。また、年に二回の渡りという習性も命取りになりました。何度襲われても春と秋に同じ道筋を通るため、開拓者たちは、決まってその季節になるとハトの収穫を待ちわびたものでした。こうしたリョコウバトの習性が命取りになったのです。

ところで、リョコウバトはどのように食べられていたのでしょうか。リョコウバトの肉の味については美味しいという感想から、とても食べられた代物ではないというものまで、様々なことが言われています。もちろん、その違いは個人的な味覚にもあるでしょうが、ハトをどのように料理して食べたのかによる部分も大きいでしょう。

ネイティヴ・アメリカンの人々は、ハトを生で食べたり、乾燥させたり、燻製などにもしたようです。また、捕まえたハトを、太らせて食べるという方法は、よく行われていたものでした。ヒナが逃げないように羽を刈り込んでしまい、太らせて、9月から10月になって食べるのがとりわけ味が良いとされました。たとえば、カナダのモントリオールでは、初霜が降りるまでハトを太らせておき、それから殺して冬用に貯蔵したそうです。ニュー・イングランドなどでもヒナを捕まえて太らせてから出荷することはよく行われており、1ヶ月うまく肥育すると2倍の値段で売れたようです。

開拓者たち、そのなかでも肉などほとんど口にできなかった貧しい人びとにとって、ハトは自然がもたらしてくれる恩恵といってもよいものでした。焼いて食べるのはもちろん、塩漬けにして保存することもできましたし、燻製料理も好まれました。また、いろいろなスパイスを聞かせた漬け汁に漬けこんで味付けしたハトは、お客用のもてなし料理としても喜ばれました。また、ハトの油はバターのような風味があり、しかも一年おいても悪くならなかったため、便利に用いられたようです。

19世紀の初めには、60億羽とも90億羽とも言われたリョコウバト。1860年に、鳥類保護法が成立したときの調査でも、その数は50億ないし60億羽ほどになるとされていました。それが、そのわずか7年後、リョコウバト保護法ができた時には、すでにリョコウバトは珍鳥の一種となっていました。それでも中西部の五大湖地方には、ある程度の規模を持つ集団が確認されたと言いますが、1885年以降はそれも急速に減り、1894年には、ついに野外でリョコウバトの巣を見かけることは無くなったようです。捕獲された野生のリョコウバトの最後の標本は、1899年に採集されたものです。

リョコウバト同様、北アメリカで絶滅の道をたどった野生動物に、アメリカ開拓期の映画などでよく見かける、巨大な体を持つアメリカン・バッファロー(バイソン)がいます。ネイティヴ・アメリカンの人々と共存し、かつては6000万頭も大草原で草を食べていたといわれるバッファローは、19世紀末の北アメリカ大陸ではわずか二百数十頭にまで減っていました。大陸の西部へと移動する人々が、毛皮を取り、肉を食べ、さらにはスポーツとしての狩を楽しむ間に、バッファローの数は驚くほど減っていたのです。ただ、リョコウバトとは異なり、バッファローの方は保護運動が効果をあげ、今では20数万頭を数えるほどにまで回復したと言われています。

その一方で、かつてはあれほどの数を誇りながら、極端に数が減ってから後は、まるで急な坂を転げ落ちるように絶滅に向かったリョコウバト。その絶滅の原因の一つは、集団を組むことで生命を支えられている集団性の動物が、その生活の場である集団を失ってしまったためであるとも言われます。そして、1914年には、世界にたった一羽を残すだけとなってしまったのです。

オハイオ州シンシナティの町の動物園に、アメリカ全土にその名を知られた一羽の鳥がいました。その鳥の名前は“マーサ”。かつて世界でもっとも数の多い鳥であったリョコウバトの最後の生き残りでした。“マーサ”という名前は、合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンの夫人、マーサ・ワシントンにちなんだものでした。リョコウバトという種のわずかな生き残りの仲間たちが死んでいき、最後に残ったマーサは、一躍、世間の関心を浴びることになりました。マーサのところには、見物に訪れる客たちがやって来ては、話の種にその小さな姿を一目見ようと、我先にと籠の中を覗き込みました。

アメリカ、シンシナティにある動物園の籠の中で、ひっそりと死んでいるマーサが発見されたのは、1914年9月1日、午後1時のことです。そのわずか前に、マーサが木に止まっている姿を飼育係が確認したばかりでした。マーサは、止まり木から静かに落ち、息絶えたのでしょう。小さなマーサの死は、アメリカでは大きなニュースになりました。マーサの死によって、北アメリカで何千年にもわたって生き続けてきた鳥の一種の最後の命の火が消えたのです。おそらく、種の絶滅の正確な時間まで明らかになっている唯一の例と言えるでしょう。

マーサは、動物園では大切に保護され、管理されていました。しかし、捕らえられ、最後の仲間が死んでしまった後も、長い間、籠の中で、たった一羽で、人間の目にさらされ続け、リョコウバトという名前を持ちながら、再び大空へと旅に出ることもなく、狭い檻の中でその生涯を終えたのでした。マーサが死んだ頃には、空を見渡すかぎり覆いつくしたリョコウバトの大群の姿を、まだ記憶している人々が多くいました。しかし、それから数十年が過ぎる頃には、リョコウバトの思い出を語る人びとの数も減り、今では、リョコウバトのことは昔話として語られるようになりました。マーサの小さな遺体は、水につけられ冷凍して保存され、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館に送られました。その死骸は剥製にされ、博物館の一角に飾られています。

鳥類の歴史始まって以来、最大の個体数を誇ったとも言われるリョコウバト。60億といえば、現在の地球上の人口と変わらない数です。それがわずか一人の人間が生まれて死ぬまでと同じほどのごく短い間に、絶滅へと追い込まれてしまったのです。人間の欲がある方向に向かえば、これほどのことが自然界に起こりうるのです。人間が食料とする生物の中にも、今のところは自然界にはザラに見られる種類がありますが、人間が欲を向ける方向を誤れば、それらの生物もまた、リョコウバトと同じ運命を辿るかもしれません。

食べることをめぐる人間の際限の無い欲。それが、わたしにはかつて人々を恐れさせたリョコウバトの襲来よりも、いっそう不気味に思えてくるのです。

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。

主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。

また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。

第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。

また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。