食べ物と異文化との接触
ロサンゼルスの日本人街で、奇妙な光景を見たことがあります。手狭な路地の奥に、アメリカ西海岸にしては小さな食堂がありました。中央に大きなテーブルがあり、それを取り巻くように椅子が並べられています。ちょうど日本の牛丼屋のような造りでした。違うのは、人々が前にしているのが、小ぶりな鍋であることでした。看板には、「日本式しゃぶしゃぶ」とあります。どうやら、客たちは、しゃぶしゃぶ鍋を一人で楽しんでいるようでした。
しゃぶしゃぶと言えば、日本では、普通は一つの鍋を囲んで大勢で楽しむ料理です。ですから、一人ひとりが自分専用の小さな鍋を前にして、ぎこちなく肉をつまみあげては鍋に入れ、箸をせっせと動かしている姿は、どこか物さびしく、可笑しくもあるものでした。
世界各地の料理についての知識が豊富となった現代の日本国内でも、こうした可笑しさは誰しも一度や二度は体験したことがあるでしょう。そういえば、イギリスのある街で、日本からの旅行者が、レストランで丸い一枚のピザを頼んで数人で分けようとしたところ、ボーイに非常に嫌な顔をされたと、憤慨していたのを思い出しました。逆に、アメリカ人の留学生が、日本のレストランでピザを食べようとしたら、「うまそう。一つもらうね」と、日本人の学友が横から手を出して丸いピザの一切れ分を食べてしまったと、呆れていたこともあります。「やめてくれ。これは、ぼくのピザです!」と、彼は冗談めかして言いました。
確かに、欧米では、一つの料理を何人かで取り分けるよりは、個々の皿に自分だけの食事があらかじめ盛り付けられて登場することが普通です。そうした食文化で育った人々には、しゃぶしゃぶやすき焼きのように、皆が口にした箸を一つの鍋に思い思いに突っ込んで、料理をつつきながら食べるなどという習慣は、どこか心理的に受け入れがたいものなのでしょう。そういえば、30年ちかい人生のほぼすべてをアメリカやヨーロッパで過ごした我が家の息子は、風呂に入ると、湯船で体を洗い、湯はすべて自分用に使ってしまいます。日本では、家族が一つ湯に入り、公衆浴場では大勢の人が一つ湯を使うのだと説明しても、どうも馴染めない様子です。個人専用か、それとも大勢で分け合うのかという点では、風呂も鍋も同じような発想に基づいているのかもしれないなと、わたしは他愛もない連想を膨らませたのでした。
ある地域の食文化が、他の土地の食文化と接触し、その中に入り込む際には、様々な形が見られます。基本的には、素材だけが導入される場合、素材と共に調理法も含めて導入される場合、そして、素材や調理法はもちろん、食事作法まで、それらすべてを含む食事スタイル全体が導入される場合が考えられるのです。ただ、食べ物の選択に保守的な地域も少なくありません。その点、日本はずば抜けて貪欲と言えるほど、世界各地の料理を短期間に日常に取り入れてきた珍しい例だと思います。
食べ物以外でも、日本人は、気に入りさえすれば、外国の衣食住のすべてをほとんど抵抗なく生活に取り入れます。しかし、世界には、それとは別の立場を取る集団も少なくありません。たとえば、インド人の、特に女性は、衣装に関しては極めて保守的です。ニューヨークで開かれる原子力会議に参加する女性科学者も、衣装だけにはこだわります。伝統的なサリーを身に付けて、ニューヨークのビル街を歩きまわるのです。
日本では、一般家庭で、和、洋、中、その他のエスニック料理など、異なる国々の料理を日常的に作り分けます。さらには、それらはしばしば渾然一体となって同じ食卓の上に登場します。このように多種多様な料理を、誰もが日常的に楽しむなどというのは、世界広しといえど珍しいことのようです。
朝食一つとっても、日本では、家族の中で、和風を好む者と洋風を好む者に分かれるのも珍しいことではありません。そうした日本の普通の食事を改めて考えてみると、調理器具や用意する食器など、相当の量になることが分かります。トーストとハムエッグ、コーヒーという簡単な洋風朝食でも、トースター、フライパン、フライ返し、ポットなどの調理器具や、パン皿、平皿、バターナイフ、フォーク、ナイフ、塩入れ、マグカップ、スプーン、砂糖入れなどの食器が必要となります。一方、ご飯、味噌汁、生卵、焼き鮭、漬物、お茶といった和風の朝食をとる場合には、炊飯器、しゃもじ、なべ、包丁、まな板、お玉じゃくし、やかんなどの調理器具のほかに、飯茶碗、平皿、箸、箸置き、汁椀、醤油さし、急須、湯のみ茶碗などの食器を使うことになります。その結果、日本の家庭の台所は、他の国々の家庭の台所に比べて、種々雑多な調理用具、食器の類に囲まれていると言えます。
日本国のなかに外来の料理が入り込んだのは極めて古く、縄文時代に遡ることができます。それらの食材は、主に大陸から丸木舟で運ばれてきました。その時代以後、米、梅干し、茶などが伝えられたことは、良く知られています。時代がずっと下り、十六世紀以後、たとえば南蛮船の時代以後には、サツマイモ(フィリピン経由)、ジャガイモ(インドネシア経由)、白菜、キャベツ、トマト、カボチャ、ニンジンなどの野菜類が運ばれてきました。これらは現在では、日本料理の中にすっかり定着しているので、外来の食物だとは考えない人が多いでしょう。さらに、天ぷら、パン、カステラなど、明らかに外来の物であることが分かりますが、今では日本の食文化を代表するようになったものが、ポルトガル、スペイン、アメリカなどの欧米諸国から入ってきました。
こうした各種の料理が日本の一般家庭の日常の食事に登場するようになったのは、主に明治期以降、特に戦後になってのことです。そして、よく知られているように、明治期に日本に西洋の食文化が導入された際には、日本人の嗜好に合わせた興味深い食文化の変容が見られました。その第一段階は、西洋の食材の和風料理への導入から始まっています。慣れない素材に対する恐れを紛らわすために、まず、食べなれている調理法で処理し、馴染みやすい味や姿へと変化させることで口にしていったのです。
確かに、明治、大正期の料理本には、奇妙なアイデア料理がしばしば見られます。たとえば、当時の女性向け雑誌『家庭週報』には、「馬鈴薯おはぎ」(茹でて裏ごししたじゃがいもを団子に丸めて、上から餡(アン)、きなこ、胡麻などを振りかけたもの)(『家庭週報』第150号、明治41年)、「牛肉の黄金煮」(細く切った牛肉を汁がなくなるまで醤油と砂糖の中で煮て、卵を塗って出す、というもの)(『家庭週報』第322号、大正4年)などのユニークな料理が登場します。
西洋料理の素材の中でも、日本人にとって文明開化を象徴する存在となったのが牛肉でした。日本でも、古代には牛馬の肉を食べる風習がありましたが、仏教の伝来以後は、宗教的な禁忌により、そうした風習は一般的には見られなくなりました。ただし、肉をまったく取らなかったわけではなく、鳥類は比較的自由に食べ、野獣の類も口にしていたという記録があります。獣は、イノシシやシカ、ウサギ、タヌキなどで、江戸時代には“薬食い”などと言われて、体を丈夫にすると喜ばれました。クジラは、魚類と見なされていたため、獣肉とはされず、日本料理の中に様々に用いられていたようです。しかし、家畜である牛馬の肉については、忌み嫌う人が多かったのです。
牛肉を食することが政府から奨励されるようになっても、牛は耕作用の家畜だから食用にするのは残酷だと言う者もいれば、血気盛んなものが食せば、清らかではない血が生じ、腫れものができたり、頭髪が抜け落ちたりするという説などもありました。特に、神を穢すという信仰は強く、牛肉を食べたものは神仏を拝むことができないという考えは広く見られました。
こうした牛肉反対の根強い風潮に対して、明治になると、啓蒙のための本も出版されるようになりました。その一つが、牛料理の宣伝用に書かれた仮名垣魯文の『牛店雑談安具楽鍋(うしやぞうだんあぐらなべ)』(明治4年)です。その前書きには、「天地は万物の父母であり、人は万物の霊ゆえに五穀草木鳥獣魚肉、すべてが食物となるのは自然の理で、これを食ふことは人間の性である」と説かれています。さらに、西洋化を進める政府の奨励も加わって、牛肉を食用にする風習はだんだんと普及していきました。さらに、明治5年、明治天皇が自ら牛肉料理を食したことは、一大ニュースとなりました。こうした時勢の動きの中で、一部の地域では、県令が肉食奨励の布告を出し、牛肉は人を強壮にする栄養に富んだ物であるのに、古臭いしきたりに縛られて、自分が食べないだけならまだしも、牛肉を食べるとけがれるなどと言って、文明開化の妨げをするものが少なくないが、これは政府の方針に逆らうもので、町役人から説諭されるべきだ、としたところさえあったようです。
食べ慣れない素材の導入のために考案された文明開化のアイデア料理の中で、日本人好みの傑作の一つがすき焼きです。ところで、当時、牛肉を使った鍋料理には、牛鍋とすき焼きとがありましたが、これらは同じものと思っている方が多いのではないでしょうか。牛鍋は、雁鍋やぼたん鍋などの調理法が用いられたもので、関東で行われていました。一方、すき焼きは関西のもので、後に東京の店で取り入れられたようです。『東京開化繁昌記』によれば、当時の牛鍋屋の貼り札には、すき焼、鍋焼、玉子焼、塩焼、刺身、煮付などのメニューがあったとされます。牛肉の刺身は、酢味噌をつけて食べるという食べ方もありました。
ところで、こうした素材の導入は、異なる食文化受容の第一段階にすぎません。さらに深入りした例では、調理法を含めた西洋料理そのものを受け入れる場合もあります。日本においては、西洋料理の受容が本格的に展開するのは、一説には、日露戦争(1904〜5)前後からとされています。とは言っても、それは西洋料理そのものというよりは、日本風の西洋料理であり、様々な努力で日本人の嗜好に合わせて作り変えられたものでした。
その一つの例は、西洋料理を作る際に、醤油、味醂、砂糖、味噌などの調味料を加えて、日本風の味付けに変化させることでした。さらには、西洋料理の本来の素材を日本の素材で置き換えた例もあります。たとえば、先の『家庭週報』では、「西洋料理にはなるべく日本の材料を用ゆる事。例えばマカロニーの代りには干しうどん、そーめん等を用ひ、チーズの代りとしてかつおぶしなども可なるべき」(『家庭週報』第4号、明治37年)、「サンドウッチ」(干しあわびを水にひたして、酢に漬ける。それを刻み、そして刻んだわかめとマヨネーズと混ぜ合わせる。パンにはさんで、食べる)(『家庭週報』第401号、大正6年)などといった記述が見られます。似て非なるものと言うべきでしょうか。あるいは、知らぬが仏とでも言うべきでしょうか。これらの指南に従って作られた料理は、果たしてどれほどハイカラな味がしたのか、一度、食べてみたい気さえします。
さらに、日本と西洋の素材や調理法を折衷させる努力も行われました。そうした和洋の折衷料理は数多く見られますが、わたしたちに最も身近なものの一つが、文明開化の時代に作られたアンパンでしょう。アンパンは、いわば西洋風饅頭です。そして、その後に作られたジャムパンやクリームパンも、日本独自に考案された菓子パンです。
アンパンが発明され、世に広まった経緯も面白いものです。そもそも、アンパンの祖先とも言えそうなものは、饅頭にあったと言えるかもしれません。饅頭が日本で最初に作られたのは、1249年、京都の建仁寺の住職が中国での留学生活を終えた時、林浄因という人物を日本に連れ帰った頃に遡るとされています。林は日本に永住を決めました。その後、中国料理の点心である肉饅頭からヒントを得て、餡入りの饅頭を作って売り出したところ評判となりました。餡には、大和芋を下ろしたものを使ったとされています。
ただ、現在、普通に販売されているアンパンの原型を発明したのは、木村屋総本店(明治2年創業)を起こした木村安兵衛とされています。『パンの日本史』(安達巌著)によれば、当時、知識層の中でも依然として排外的風潮が強く、パン食についても抵抗感がありました。安兵衛は、こうした風潮に対して、パン食を広めるために、日本人に馴染みやすい工夫を凝らしたアンパンを発明します。アンパンは、酒種で発酵させたパン生地を用い、日本人の好む小豆餡を包んで焼くという、日本と西洋の素材と調理法の折衷によって生み出されたものでした。さらに、安兵衛が、明治天皇の侍従を務めていた山岡鉄舟にアンパンをすすめたところ、鉄舟はこれを大いに気に入り、明治天皇にお勧めしました。ただ、宮中では従来の京菓子屋の力が強く、アンパンのようなものを勝手に献上することはできなかったため、天皇が水戸家の下邸に外出された折を狙って差し上げ、大いに喜ばれたと言います。そして、アンパンは、新橋—浅草間の鉄道馬車が開通した鹿鳴館時代には、すでに銀座名物として知られるようになり、日清戦争前後の好景気の時代に、全国に広がって行きました。
素材や調理法はもちろん、食事作法まで含めた食事のスタイル全体の導入という点ではどうでしょうか。たとえば、食事の舞台となる食卓から見れば、かつての日本は、一人ひとりが自分のお膳を前にして食べる銘銘膳が一般的でした。それが、町に住む家族では大正末頃から、家族で一つのちゃぶ台を囲んで食べるようになり、そして、戦後は、椅子に腰かけてテーブルに着くといった習慣が浸透して行きました。このように考えると、食事の舞台という点では、ある程度の時間をかけながら、和から洋へと変化してきたと言えます。
しかし、いくら食生活が欧米化したとはいえ、現在のところ、一般家庭で欧米の食事スタイル全体が浸透したとは言い難いでしょう。それどころか、日本の家庭の日常の食事を見ると、簡単で速いといったインスタント食品が幅を利かせている一方で、そのメニューは世界各地の料理を貪欲に取り込みながら、ますます折衷型を極めているように思われます。さらに、テレビや雑誌などでも西洋料理に関する紹介が飽きるほど行われていますが、その内容は食事の美味しさやメニューの新しさなどに集中し、食事作法という点はあまり話題になることがありません。また、日本では、西洋料理を食べる時も、多くの場合、その場その場での対応の仕方を変えて、何らの不便も感じていません。
こうした特徴は、よく言えば、飽くなき探求心と、何でも自らのスタイルに組み込んでしまう適応性と言えるでしょうか。こうした傾向を取り立てて日本人の国民性などと言う気はありませんが、興味深い習慣であることは確かです。新しいものに順応し、少しばかりの工夫を施し、自分の生活の中に取り入れるということを当たり前とする思い込みが、根強く働いている結果なのでしょう。
著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)氏
昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。
主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。
また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。
第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。
また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。