食のエッセイ

“ことば”を食べる時代

わずか3、40年ほど前までは、食べ物の話題となれば、カロリーやビタミンといった栄養学関係の用語が次々に飛び出すものと相場が決まっていました。雑誌の“食べ物”記事やテレビの料理番組には、栄養学の専門家が登場し、健康で丈夫な体を作るには何をどのように食べたらよいのかということについて、うんちくを傾けたものでした。その種の話題には生理学や化学の用語が多すぎるので、本当は一般の聞き手には理解が困難なはずでした。しかし、偉い先生が言うことは有難いという風潮が強い日本では、とにかく体の維持のためには足りない物をと、栄養補給に効く物を求めて、人々はデパートの食品売り場などをさまよい歩いたものでした。

しかし、この2、30年を見ると、食べ物をめぐる事態はすっかり変わりました。栄養の話などは、専門誌を見なければ接する機会はあまりありません。日常生活で話にあがるのは、どこの店の料理が美味しいかとか、今流行っている料理はこれだ、といった話題や、有名食品や珍しい食材の試食体験記のようなものが圧倒的に多くなりました。そして、その話題の範囲は日本を離れ、遠く世界の僻地や秘境と言われる所にまで広がってきています。異国の食文化を紹介した番組を見ると、欧米の高級レストランとその料理に関するもの以外では、訪問先の現地の文化をまともに紹介するという意図はあまり見られません。タレントと呼ばれる若いお嬢さんが、普段どおりの可愛い化粧をしたままで珍しい土地に現れ、昆虫の唐揚や日本では“食べ物”ではないとされる動物の肉などを土地の人に出されて、「ウワーッ!」と大げさに驚いて見せ、それからその料理を口に入れ、クローズアップされることが決まっている画面の中で、大げさな表情で「すごーい!」、「美味しい!」などと驚いてみせる。それだけのものです。

身近な土地を取材対象とした番組の場合は、ラーメンや和菓子のような、ごく日常的な食べ物が多く話題に取り上げられています。そして、テレビでは、ラーメンなどはほとんど食べたことがないようなタレントのお嬢さんが、どこかのラーメン屋さんに入り、スープをひと口飲んだだけで、「なにこれ、すごいおいしい!」と絶賛する。それだけのことで、その翌日には店の前に長い行列が出来るといったような光景が、決して奇異なものではなくなっています。もちろん、本格的な味に挑戦している店もあります。しかし、ラーメンのようなものは、ただ作るだけならば、誰にでも出来るものです。料理は素人同然であるにも関わらず、店の宣伝ばかりに力を入れる店主も少なくありません。商売は世間の動きを見て、流行に便乗するということも大切ですから、一概にそのような営業行為を否定できるものではありません。それよりは、ラーメンを食べ歩いたこともない人々が、食べ歩き番組を見ただけで、どこそこの店の味が日本一だと信じて列を成していることは、“食べ物”というものの性質を考える場合に注目に値するものがあります。その傾向を強めているのは、主に宣伝“ことば”の力です。

食べ物の味の良し悪しは、確かにあるはずです。しかし、不味いか美味しいかには、「その人にとってどうか」という個人差があることを忘れてはなりません。そして、個人個人の味覚の違いは、単なる体質の違いというよりは、むしろ当人が育った環境が大きな影響を及ぼしています。関西育ちの人と関東育ちの人との味覚の違いを考えただけでも、それは簡単に分かります。ましてや、もっぱら辛いものを食べて育った韓国人と、味が淡白な芋料理のようなものを主食としているニューギニア人との味覚の違いが非常に大きなものであることは言うまでもありません。

実際のところは、“本当の味”とされる味が分かる人は、何百人に一人という割でしかいないのです。本物の“味の通(つう)”は、希少なのです。それでは、一般的に“おいしい”というのは、何なのでしょうか。それは、「不味くなければ、おいしい」のです。すなわち、不味いものは各自の判断で簡単に判断できます。嫌いなものは嫌いなのです。しかし、不味くないものならば、その場の雰囲気や、その場を一緒にする人や、その食べ物に付随する名前や由来などによって、味はいくらでも変化します。良い条件、良い雰囲気のなかで食べれば、同じものでも味はずっと美味しく感じます。「“食べ物”はコミュニケーションである」ということは、コミュニケーションは食べ物や飲み物の味を操作するものであるという意味をも持っています。同じ食事でも、一人で食べるよりは親しい友人と食べるとか、家族で仲良く食べる方が美味しい。酒を一人寂しく飲むよりは、好ましい雰囲気のなかで、誰かと一緒に飲む方が美味しい、快い会話が味を良くする、と言うのは当然のことなのです。

日本は、栄養主義の時代から、飽食の時代に移り変わり、いまや、亡食の時代に入り込んでしまっているという人々もいます。色や形さえ整っていれば良いといった風潮が強まり、まともな食べ物というものが少なくなってきています。物を食べるということの本来の意味を実感することなく、ゲーム感覚でものを食べる子供たち。栄養補助のためのサプリメントを食事代わりにして体を保とうとする若い女性たち。便利になって食事の準備が手軽になったことで、ますます手抜きを始める親たち。食べ物を舌で味わうのではなくて、思い込みで食べる人々。こんな状況にある現在を“亡食の時代”と称したのでしょう。

自分にあった味を求める。その味覚をさらに磨く。現実には、こうした考えは非常に弱まっています。金さえ出せば何でも食べられる。有名品であればあるほど、値段が高ければ高いものほど、美味しいものである。こうした考えが着実に人々の心のなかに入り込んできているようです。例えば、豪華な装飾が施された店で、メニューに出ている料理の値段が極めて高額であれば、料理は“セレブ料理”として喧伝されます。それを口にすることが出来た“非セレブ”の人々は、出された料理のすべてが本当に美味なのだと信じ込むという、不思議な状況も生まれています。

現在、“食べ物”には、料理する手間や客に対する料理人の心遣いよりは、“ことば”が重要な役割を果たすようになっています。極言すれば、多くの人々は“食べ物”そのものではなくて、“食べ物”を包んでいる“ことば”を食べているとさえ言えそうなのです。

まず、マスメディアを通して送り届けられる“ことば”としての食べ物の代表として,ブランド品をあげることができます。店が老舗であるとか、料理がブランド品であるというのは、本来は、そうしたものに実際に関わった人々の評判、すなわち他人の評価が決めることです。ところが、現在では、多くのものが、初めからブランド品であると宣伝され、客はそれに飛びついて食品を求めます。

“ことば”に大きな役割を持たせるこうした店や料理の作り方には色々な方法がありますが、誰もが知っているのは、有名なテレビのチャンネルや売れ行きの良い新聞・雑誌を利用して、大々的な広告を出すことです。そこでは、著名な芸能人の名前を挙げて、「〜の一押しの店」と言って宣伝し、時には、売り出したい料理をその人物が食べている場面を見せたりすることもあります。現在のような情報メディアが発達した世界では、現実の仲間と一緒にいるよりは映像上の有名人と席を同じにしているという感覚の方が違和感なく、実感が持てる人が多くなっていることも、そうした“虚構食”とでも呼べるものを支えているのです。

しかし、このような誰にでも分かる宣伝“ことば”の操作ではなくて、普通は気づくことがない部分で“ことば”は食べ物に大きな役割を果たしています。その代表的なものが偽装商品とされる料理素材や料理そのものです。現在、多くの料理素材には、正しい品名、産地や製造年月日の表示が法に基づいてなされていますが、それでも法の抜け穴はいくらでもあります。さらに、マスコミで事件として大々的に取り上げられない限りは、一般の人々は気がつかないという怪しい料理や素材はザラにあるはずです。

それどころか、一旦料理となってしまえば、その中に含まれている様々な素材には、素材の正しい品名や産地、製造年月日などは表示されません。例えば、レストランに入って、ある料理を注文した時、持ってきた皿の上に盛ってある米の産地はどこで、何と言う種類の米で、刈り入れはいつであったのかというようなことは表示されません。おかずの魚や野菜などに関しても、同じことです。その種の表示を義務付ける法はありません。当店は、備長炭のみを使用していますとか、どこ産の何のみを調理していますということを“売り”としている特別な店は別として、一般のレストランや食堂では、客は出されたものを信じて食べるだけなのです。

最近になって、ブランド品から日用のものに至るまでの各種の食品で、原材料の偽装や賞味期限の改ざんが行われていたことが、マスコミで大きく報道され、人々がそのことに気づかされるというケースが増えています。こうした“ことば”先行型の“ごまかし商品”の例は、肉類の場合、豚、鶏などはその種類がもともと少ないので、偽物であることの判断はある程度は易しいとも言えます。しかし、魚介類となると種類が圧倒的に多く、名前は知っているが実物は知らない、あるいは名前さえ聞いたことがないというものが、いくらでもあるのが実状です。マグロやイワシを見ても、それが何であるかが分からない人は決して少なくはありません。一例としてシシャモを取り上げますと、それとは別の種類であるキュウリウオとの区別がつく客は普通には見つかりません。ただ、値段が高いシシャモと安いシシャモ〈キュウリウオ〉の区別がつくだけです。また、漁獲量が極めて少ない本物のシシャモと、大量に取れるカラフトシシャモの区別も、その値段で区別がつくだけというのが普通です。カラフトシシャモは、漁獲量が多いだけではなく、その多くはカラフトという名とは異なって、ノルウェーやカナダからの輸入品なのです。しかし、それらはすべて、多くの食堂や飲食店ではシシャモの名で売られています。いや、それどころか、店の主人自身がそれを本物のシシャモだと思っていることすら多いのです。いずれにせよ、客は売り手に言われるがままに商品を信じ、それを買い、本物と思い込んで食べるということになります。

日本人の食生活が大きく変わり、特に若者の魚離れということがよく言われます。確かに、魚を丸ごと焼いてかじり付いたり、干し魚の類を口にしたりする機会は減りました。小魚の佃煮を食べたことがないという若者も、少なからずいます。しかし、実際は、日本人の魚介類の消費量は現在も世界一だということです。その背景には、焼いたり干したりと、同じ素材をいろいろな形にして料理をしていたアジやイワシなどを食べることが少なくなった代わりに、マグロやサケやエビの類の消費量が大幅に増えていることもあります。それに、ブリ、タラ、イシモチ、ホッケなどは、食べなくなったわけではありません。ただ、都会に住む多くの人々は、自分が食べている魚介類が何なのかを知らないだけではなくて、知ろうとする気もないのです。知らないということで言えば、野菜の類でもその新鮮度を保つために、放射線のようなものを通して商品となった野菜の発育を止める、鮮度を保つという技術が発達しています。その操作が過度に施された場合はどうなるか。そのことを外観から、すなわち店頭で見破る方法はありません。

例えば、本来のものとは異なる魚介類の名を一つひとつ挙げていけば、お膳の上は“名ばかり料理”だと気付いて、がっかりすることになりかねません。形や味が多少似てさえいれば、それがまったく別の種類のものでも一向に構わない。それだけならば“知らぬが仏”というだけで、たいした害にはならないでしょう。ところが、実情はそれほど単純ではありません。肉や魚や魚の卵などには加工品が多く、そのためには人工の素材を使ったものが多くあり、多量の添加物が加えられています。その種の素材に必ずしも体に良いものが用いられているとは限りません。ただ、そのもの自体には実害がないという保証がありさえすれば良いとされます。中には、その素材は一定量を超えて摂取しなければ実害が見られないが、ある限度を超えたならば害がある、または、害があり得るというものも多々あります。

養殖で育てられた魚類には、その養殖のために使われた飼料の種類や成分は、当然のことながら商品には明記されません。「最も安く、最も効率よく育てる」。これが基本である業界の原則は、良心よりは売り上げを第一目標とする生産所を生み出すこともあるわけですから、ブランドとなっている産地名、すなわち“ことば”を素直に受け入れることは出来ないわけです。ましてや、そうした商品の多くは外国からの輸入品です。国外の生産地での状況は、マスコミでその養殖過程に見られた危険性が報道される場合を除けば、「知る人ぞ知る」だけです。こうした問題は、すべての場合が、というわけでは勿論ありません。ただ、同じ素材名、料理名をしていても、良い品は限りなく良く、悪い品は限りなく悪いとしか言えないものなのです。

甘い言葉には気を付けよ」というのは、路上のキャッチ嬢や、高利潤を謳う金融業者、男女の間の会話だけに関係する“ことば”ではありません。そうしたものは意識して注意すればある程度は実害を避けることが出来ます。しかし、商品としての“食べ物”の場合は、“安全”の意味は、ある基準から見れば体には“実害がない”というだけに過ぎず、本当の意味で”安心“ということではないのです。“ことば”に操作されて安心だと思っている“食べ物”と、本当の意味で“安心出来る食べ物”との間には大きな違いがあります。しかし、現実に、この二つの“安心”を見てみると、前者のような個人的な思い込みによる安心の方が、後者のような誰にとっても文字通りに“安心”であることよりは、勝っていることも明らかです。多種多様な“食べ物”が身辺に満ち溢れている現在の状況では、本物の“安全”を個人が手に入れるのは、プロの人間にとってすらほぼ不可能に近いでしょう。それでも、名前という“ことば”に惑わされず、出来る限り “実”にこだわる心構えを怠らない必要があるように思えます。

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。

主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。

また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。

第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。

また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。