食のエッセイ

バクとゴキブリと食文化

文化人類学者で言語学者の西江雅之氏は、今まで世界中をめぐって、様々な文化に接してきています。一般の旅行ではとうてい想像もできないほどの、多様な伝統や習慣の実体験をしてきたその西江氏と、映画監督として長いキャリアと数多くの作品を手がけてきた東陽一氏のお二人に、「食べる」話を中心に語り合っていただきました。

(写真:左・西江雅之氏 右・東陽一氏)

西江雅之 × 東陽一 対談 「食で思いを巡らせて」

今までの話を聞くと西江少年は、普通には生きにくい人じゃなかったかと思いますね。もし病弱だったらもっと早く死んじゃったかもしれないし。

西江そうですね。体が強靭という事ではなくて、普通の健康状態をたもっていました。そんな体に生んでくれた親に感謝ですね。とにかく、いろいろ食べてみました。チョウチョは、食べてみてまずかったし、セミの体は肉がないし。

司会一度も食べたことのないものを食べるとは、どういうことなんでしょうね。意思というか。

西江ぼくの子供の頃は、味ではなく、食べられるかどうか、それだけでした。味覚ではない。だって当時美味しかったなあと思ったのは、それこそ給食で初めて食べたコッペパンしかない(笑)。

司会東さんも色々なところに行っていると思いますが、西江さんは文化人類学・言語学者として、一般の人がなかなか行けないところに訪問されています。現地で食べもので困ったことは?

西江ぼくは現地で困ったことはないです。その場で食べられるものを探していると、それは土地の人々が食べないものなので、どこに行っても、変わっていると土地の人々に言われます。

文化人類学に関わっている人の多くは、現地に行くとそこの人達と同じような服装をしてそこの物を食べてみる、ぼくはそういうようなことはまったくしないです。どこかの村に行っても自分が食べたいものを選んで食べる。

普通、文化人類学者といえば、どんなところに行ってもそこの土地のものを食べてそこで同じような生活をするんだろう、と一般には思われてるんじゃないですか。

西江ぼくは村に行って、装いも食べ物も、自分なりのものです。村の人とは違うものを食べているから「野蛮人が来た」と思われているかもしれない。そうでなければ変人扱いされます。

それはとても大事なポイントですね。自分の直感ですか。

西江そうですね。東南アジアとかに行く人には、せっかくこの国に来たのだから屋台に行くとかあるでしょ、ぼくは一回も行きません。よくわからないものは食べない。ぼくは海外でお腹を壊したことはないんですよ。ぼくの目安は、素材そのものが見える、例えば肉の塊など。

面白いですね。生き物の形が、名残として残ってないと食べないということですか。

西江そうです。小さく切って、色々な素材と混ぜるようなものは、良くわからない土地では絶対食べない。だから実は、フランス料理や京都料理も、それが与えられた場でもない限り食べない。(笑)

それは何なんでしょうね。

西江それは煎じ詰めれば、とにかく疑ってみるという忍者の思想ではないかと(笑)。

司会現地で強要されるときはないのですか?

西江あります。でも食べない。食べた振りをしてごまかしてしまうときはあるのですけれど。

司会液体、お酒の類も出ますよね。それらは飲まないのですか?

西江何で作っているかが見える場合は、飲みます。奥地とか秘境とか言われる土地では、まさかカクテルは出てこない。芋だとかバナナだとか、そんな材料だとはっきりわかれば飲みますよ。

それは本能みたいなものですかね。何でも食べるみたいだけれど、実はかなり選択をしているということですね。巧妙です。

でもそれにしても、日本人があまり食べないものを、食べてきたでしょ?

西江野生動物は、かなり食べています。キリンから象、シマウマ、ワニ、アナコンダ、トナカイ、アルマジロ、イタチ、ネズミ……。 本当に何でも食べました。考えられないくらいの種類を食べています。

味はどうなんですか。

西江もちろん、あります。

どれが美味しかったですか。

西江それはね、ぱっと思い出して、あれが美味しかったというのは、ギアナで食べたバク。

バク?

西江冗談ですが、ぼくはバクの肉をいっぱい食べたから、それ以来、夢も希望も無くなったんだと……。バクは夢を食べる動物だと言われていますからね。バクの肉は焼いて食べました。

あとはアルマジロ。可哀想なことに中の肉を取って、ひっくり返して焼いて、アルマジロは自分の背中がお皿になってしまう。

「食えるもの」と その民族の「食べもの」との違いというのは、やはりとても大きい問題ですね。

西江10年くらいぼくが主張していることのひとつに、飢饉のときに文化の違う地域に何か食べ物を送るということに反対をしていることがあります。例えば、日本では卵は食べ物なのですけど、それは食べ物ではないという土地がある。そんな所に、卵を送ったらその国はどう思うか。

極端な話をすれば、日本で災害が起こったというときに、ゴキブリを蛋白質源として食べている土地から、大量にゴキブリが送られてきたらどう思いますかということです。

ゴキブリは栄養学的にも実証されるし、味も美味しい。でももし、日本にそれが送られてきたらどうするか。例えば、今内戦で困っている地域に、宗教上の理由で食べないものを知らずに送ったらどうなるか、豚肉を食べない土地、牛を食べない土地、国や地域によって「食べる」ということには全く違った意味がある。

「食べ物」というのは文化の話であって、安心して「食べる」ことと、毒にはならずに「食べられる」ことは全く違う。人間が食べられるものは、ものすごい数がある。ただしその多くは「食べ物」ではないのです。

この話は、何度もあちこちで話をしているんですが、なかなか分かりにくいようです。好き嫌いの話ではなく、その地域に生まれて育った人間が一般的に「食べる」ものと、人間全般が命を失わずに食べられるものというのはイコールではない。トマトが嫌いとか、そんな話とは別です。世界の食料問題の中心は、「食べる」ものと「食べられる」ものをごっちゃにすることで複雑にしています。

ぼくは昔、シリアに行ったときに、みんなと同じ食事をしていたんですが、ぼくひとりがひどくお腹を壊した。みんなと同じものを食べてるのに。どう考えても、ぼくは変なものは食べていない。シリア人が食べているものを食べている。それなのに、ひどい状態になるわけ。それで思ったのは、今の日本人は「滅菌」されすぎているんじゃないかということですね。 雑菌に対して抵抗力がなくなってるように思います。

西江学生なんかも、あちこち旅行に行ってお腹をこわす。理由は簡単ですよ。せっかく珍しい土地に行ったのだから、屋台で食べようとか現地のものを無防備に食べる。ぼくは、出かけたときこそ、神経質になって、そうしたものは食べないからお腹を壊したことがない。場所によっては水を一切飲まない。もしその土地にあるのなら、コーラやビールを買って飲む。もっと別の言い方をしたら、アフリカの砂漠などにすごく綺麗な水があったとする。それは絶対飲まない。なぜかというと、ボウフラも何も生きていないような綺麗な水だとしたら怖い。そういう感覚が身についてしまっているので、外見だけから判断して飲み食いすることはありません。また、おいしそうな名前だけから、何かを食べるということもありません。

さすが、 生き延びる方法をよくご存じですね。

今日は全体として西江雅之講義録みたいになりましたけど、機会があればまだもっといろいろお聞きしたいところです。

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。

主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。

また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。

第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。

また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。

東陽一氏

著者:東陽一(ひがし・よういち)

1934年、和歌山県生まれ。映画監督、脚本家。早稲田大学文学部卒。

代表作に「サード」(1978年)(芸術選奨 文部大臣新人賞受賞)、「もう頬づえはつかない」(1979年)(第34回毎日映画コンクール 日本映画優秀賞受賞)、「橋のない川」(1992年)(第47回毎日映画コンクール 監督賞・同日本映画優秀賞受賞)、「絵の中のぼくの村 Village of Dreams」(1996年)(第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)、「わたしのグランパ」(2003年)(第27回モントリオール世界映画祭(カナダ)最優秀アジア映画賞受賞)など。

2010年12月、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を公開。同作品によって、2011年5月、第20回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

常盤貴子と池松壮亮が主演する最新作『だれかの木琴』が、2016年9月に全国公開。

2009年より4年間、京都造形芸術大学映画学科の客員教授をつとめた。