食のエッセイ

インドの中のフランスに

ポンディシェリー、アリカメドゥ訪問

一週間ほどの予定で、インドのポンディシェリーとアリカメドゥを訪ねた。とは言え、日本人でその地名を知っている者はほとんどいないに違いない。

そこは、広大なインドの南東部一帯を占めるコロマンデル沿岸部、ベンガル湾に面している小さな土地である。そう聞いてもインドという所でのことだ。町の住民の数は少ないとは言えないはずだと推測する。そんな事が気になって人口を調べてみると、ポンディシェリーだけでも人口は98万人ほどのようだ。やはり町の中は人、人、人、そして車、車で混み合っているインドなのだと再確認ができて、なぜだか気が済んだかのような気分になる。

広大なインドも世界を前提にして見れば、一部地域となる。国際関係という観点から見れば、過去も現在も、非常に複雑な背景を持っている。たとえば、今回わたしが訪問を目的としているコロマンデル沿岸部だけにかぎっても、この500年の歴史を見れば、まず、ポルトガル、次にオランダ、それからイギリス、地域によってはフランスの支配を受けてきた。

また、インドは多言語国である。大ざっぱに言えば、インドには大きな言語群が二つある。その一つは、インド大陸の北部で人びとの母語として、または国全体で第二言語として広く話されているヒンディー語に代表される諸語で、インド・ヨーロッパ語族に含まれている。もう一つの言語群は、インド大陸の南部で話されているドラヴィダ諸語である。これら二つの言語群の仕組みはまったく異なる。言うならば、日本語と英語の違いのようなものなのだ。もちろん、同じドラヴィダ諸語内にも多くの種類の言語が含まれている。それら同種の中でも、異なった名前で呼ばれている言語を話している人びとが会話をした場合、互いに通じることがない例は多い。それは、同じ系統であるヨーロッパの諸言語の場合でも、名称が異なる言語の話者同士が会話をした場合、互いに理解できない例が多いというのと同じことである。

たとえば、学問的には、英語とドイツ語は同じ系統の言語群に入るのだが、英語を話す者と、ドイツ語を話す者とが路上で出会って、普通の話題で会話をしても、互いに通じ合わないというのと変わりはない。また、一つの言語でも、地域によって多少の異なりが見られる方言がその内部に散っている。そうした背景の上に、さらに、インド国民にとっての共通語、国語である英語が、人びとの日常生活全体にかかっている。

こんな話は続けていけば段々複雑になっていく。しかし、こうしたことは、話者の立場、聞き手の関心のあり方次第で、内容は複雑にも、単純にもまとめることができるのだ。たとえば、インドには何百種という言語が話されているというのも正しい。インドには基本的には、たった二種類の言語が話されているだけだというのも正しい。インドには、紙幣に印刷されているような数だけの言語が話されているというのも正しい。それらはすべて、話者の何らかの立場から話せば正しくなるのだ。

しかし、話をまとめてしまえば、わたしが訪ねようとしている地域の人びとは、普通、最低二種類以上の言語を話して日常を送っているということで事足りることでもある。わたしが今回の最初の訪問先としているポンディシェリーとアリカメドゥでの主な使用言語はドラヴィダ語族に属しているタミル語、マラヤラム語、テルグ語である。その他、かつて他国から移住してきている少数の人びとが母語として話す様々な言語がある。インド・ヨーロッパ諸語に属すヒンディー語を理解する者も多い。そして、その全員にとっての国民語ともいえる英語の使用が、その背景に被さっているのである。なお、かつては力を持っていたフランス語の話者は、現在では非常に少なくなってしまっているようだ。

インドの一部には、わずか半世紀と少し前までフランス領が存在したということを知っている人は少ないだろう。インド大陸全体を見た場合、東側の沿岸部にはゴアというポルトガル領があり、東側にはポンディシェリーに代表されるフランス領があった。

わたし自身、ポンディシェリー出身のインド人に初めて出会ったのは、50年ほど前のことであった。現在のイェメンの一部となっているアデンの空港で、空港職員にからまれているインド人の青年が、もっぱらフランス語ばかりでその役人とやり合っていたのだ。アデンの空港職員のアラビア語と英語、そして、その場にいたわたし、そしてインド青年のタミル語とフランス語、そこでの会話はその場での雰囲気には合わないものであった。二人の間のもめごとは、旅行者にワイロを要求しているアデンの空港職員に、インド人青年が反発したことから起こったものだった。事情はすぐに飲み込めたので、そばに居合せたわたしがインド人青年を助けることになった。そのもめごとの後で、彼がインドの東側にあるポンディシェリーという場所の出身で、彼は母語であるタミル語とフランス語で育ったのだと教えてくれたのだった。

その後、何年かして、パリの路上でポンディシェリーからの旅行者に出会った、その老人は、ヒンディー語で書かれたパリの観光案内書を手にして、通りすがりのわたしに美術館への道を訊いてきたのだった。普通ならば、パリの街中だとはいえ、インド人が東洋人であるわたしに道を訊く場合は、英語で話しかけてくるはずだ。しかし、その老人は立派なフランス語で道を訪ねた。そこで、わたしが彼の出身地を聞くと、ポンディシェリーの出身だということだった。多分、そうした事があったからだろう、わたしはいつの日か、ポンディシェリーというフランス的な雰囲気のインドを訪れてみたいと思うようになった。

そんな機会が偶然に訪れた。宝石珊瑚(珊瑚礁に見られるような単なる珊瑚ではなくて、宝石になる珊瑚)の歴史背景を"海のシルクロード"(地中海全域、アラビア、インド沿岸、マレーシアとインドネシアの間のマラッカ海峡、中国南部沿岸部、など)を対象にして調べるという機会を与えられた時、その一部の調査地域として、ポンディシェリーの近くのアリカメドゥという場所を訪れる機会を得たのだった。ただし、目的は宝石珊瑚という物を見に行くことなので、限られた日数内に、いつものように土地の人びととの打ち解けた交流を持つことは、残念ながら難しそうだ。

成田空港から直行便でインドのチェンナイ(かつてのマドラス)に着く。タミル・ナドの首都である。昔は小さな漁村であったその土地も、数百年にわたる目まぐるしい世界情勢の変化に揉まれて、今や大都市である。市内の居住者や、毎日市内に出てきて働く人びとを含め、チェンナイの内部に生活の拠点を持つ人は760万人ほどとされる。そして今や、チェンナイはインドを代表する三大産業地の一つである。自動車産業の主要地で、「東洋のデトロイト」とも呼ばれている。また、コロマンデル沿岸部の観光地への出発点ともなっている。数々の立派な寺院などの史跡も多い。そして、人間、車が溢れている大都市なのである。

チェンナイからは、車ならば4時間半ほどでポンディシェリーに着く。汽車の便もあるのだが、わたしはバスを利用することにした。しかし、その走行時間のどこかに休憩時間がバスにあるのだろうかと心配になるが、決断をする。町を離れたら車窓から見えるのは広大な空間のなかの草原、畑、そして林だ。"のどか"という単語を思い出す。そしてポンディシェリーのバス停で降りる。町の中は、人、人、車、車である。そして、そこには世界のどこにでもある都会と変わらない町並みが連なっている。

喧噪に満ちた町を離れ、住宅地に入ると、情景は一転した。フランスの田舎町を思い出す。ただ、手入れが行き届いた庭先に咲いているのは、フランスの庭先とは異なって、原色の花々だ。そして、色鮮やかなサリー(インドの伝統衣装)を着た女達が路上を行き交う情景は紛れもなくインドである。

バスを降り、街歩きをする。そして取り敢えず、一晩を過ごすことになる宿探しだ。道の各所で標識を見る。道路の名前は、すべてフランスで見るものと変わらない。

立派な屋敷がホテルとなっているので、そこに宿を取ろうと決めるが、入り口の前の道端で大きな犬が嫌な目つきでわたしを見つめ、そろそろと近づいてくる。まさか、噛みついては来ないだろうと用心しながら門をくぐり、家屋の入り口で「誰かいませんか」と声を掛ける。出てきたのは、人の良さそうな若いフランス人の夫婦である。突然に現れた東洋人の姿に少し驚いたようだが、快く二階の客室に案内してくれる。

良く整頓された部屋で、フランス風であると同時に、蚊帳付きのベッドなどはインド風で、快適な夜が過ごせそうだ。荷物を下ろし、中に入れておいた文具や取材道具を取り出して床に並べてから一階に降りて、しばらく宿の主人たちと雑談をしていると、わたしが泊まる部屋に入っていたメイドさんが、「大変、大変、サルがお客さんの荷物を散らかしてしまっています」と大声で叫んでいるのが聞えてきた。二階の窓から侵入した野生の猿たちが、わたしが持ってきていた荷物に入れておいたビスケットを盗みにきたのだった。「やはり、ここはインドなのだ」そんなことを改めて思い起こした。

「夜の食事はどうなさいますか」と宿の主人が言うので、そのメニューを聞くと、サラダ、肉、パンなど、フランスにいるのと変わらない。せっかくインドにきているのだ。わたしは、近くを散歩して、適当な物を食べてみると言って夕食を断る。住宅街の道路は静かで暗い。所々に、うずくまっている犬に用心しながらの散歩をする。路上に座り込んだ三人の男が賭け事に夢中になっているようだ。インド風の外装をしたレストランを見つけ、そこに入ってみる。メニューは確かにインド料理だ。夕食は米と、羊、鶏の肉料理、それが揚げ物であったり、ローストであったり、マサラ、カシューナッツ、アーモンドなどの香辛料を使っての料理がある。東京では自分でも作ったりしたビリアニという名も見える。この土地にはイスラム教徒も多いのでアルコール類を避ける客も少なくないはずだが、ヒンドゥー教徒、キリスト教徒のために、各種のワイン、ビールも用意されている。わたしはそんな雰囲気のなかで充分な食事をするが、一人だけでというのは、どうも物足りない気分が残った。

翌朝は、クロワッサン、ハム、果実のジュースと、フランス風の一般的な朝食だった。それを終えると、早速、アリカメドゥに向かう。わたしの本当の目的地である。ポンディシェリーから約6キロ。その場所は考古学では、非常に重要な場所だとされている。なにしろ、紀元一世紀には、その場所でギリシャ、ローマと盛んな交易で結ばれていたことが、発掘などで証明されている。

『エリュトゥラー海案内記』という本の日本語訳が出ている。村川堅太郎という大学者による訳註本で、生活社という出版社から1946年に出たものだが、わたしが1960年代の初期にその本を古本で見つけた時は、大いに感動したが、値段の高さには驚いた。学生であったわたしの手に届くような値段ではなかった。しかし、なんとか工面したのだろう。その本を買い求め、大切にして読んだ。現在は、中央公論社から文庫本となっているので、ごく安い値段で手に入る。わたしは、今回の旅にそなえ、久しぶりにその本を開いてみた。

内容は、紀元百年代の半ばに、アレクサンドリア出身の無名のエジプト人が書いたとされるもので、話題は地中海全域、インド洋全域にわたるものだが、わたしの今回の旅に必要な部分は、当時のギリシャ、ローマとアリカメドゥとの海上交易についてのところである。

今からおよそ2000年前の東西の交流、それも海上交流について書かれた書物は非常に珍しいが、その種の本のほとんどは、いわゆる学者が他人の文献や又聞きから得てまとめた知識を披露したものである。しかし、『エリュトゥラー海案内記』は、船乗りであった書き手自身の手によるものとされている点で、非常に貴重な資料とされている。

当時、アリカメドゥからギリシャ、ローマに向けては亀の甲羅、インドの象牙や香料、没薬1)、真珠、布地などが、そしてギリシャ、ローマからアリカメドゥに向けてはガラス製品(これはギリシャ側からも運ばれてきていた)、衣類、銅、錫(すず)や宝石珊瑚などが運ばれていていた。そして、これら商品のうち、わたしが見にきたのはイタリア南部産の宝石珊瑚に関しての調査が目的でもあったのだ。

現在、その遺跡内に住む人間はいなかった。完全に廃墟となっているからである。遺跡には草むらの中に、かつては豪華な建造物であったと推測できる家々の遺物が転々と散っている。わたしは生きている人間に関して考察するのが専門家だ。その地の考古学的な知識は充分ではない。したがって、そこはもっぱら見学者としての訪問なのである。

現在は、遺跡内への一般人の立ち入りは禁止されているようなのだが、わたしは自分の専門分野と、宝石珊瑚の交易のことでこの地を訪れているということを説明すると、門の守衛のような人が簡単に敷地内に入ることを許してくれた。しかし、遺跡内ではガイドが付いてまわってくれるわけではない。わたしとしてはアリカメドゥに関する書物で読んだことを再確認する程度のことである。それよりは、遺跡の脇の川縁に立ち、釣り糸をたらし、ジッと川面を見つめている男、崩れた石造の建物、その場の静謐(せいひつ)、そんなことを堪能して見学を終えた。宝石珊瑚の遺物は、当然、その遺跡の中に転がっているわけではないので、ポンディシェリーの博物館を訪れなければ見られないのだ。

半日の遺跡見学を終えて、ポンディシェリーに戻る。そして、その足で町の博物館に向かう。博物館の外観はそれらしい雰囲気を伝えるものであったが、内部の展示は、やや粗末で、見るべき物も少なかった。期待していた宝石珊瑚は、ほとんどなかった。そのうえに、売店で見つけた海上交易の本が入った棚には鍵が掛かっていて、係りの者も本を取り出すことができなかった。しかし、そのことでがっかりしたわけではない。そうしたことも、あらかじめ予想していたことだった。アリカメドゥの古代の海上交易や、そこで扱われた品物などに関する資料は、すでに東京で手に入れており、現地で探す必要はなかったからである。それよりは、わたしは土地の人びとの出会いを期待していた。その人びとから、その土地で繁栄した古代海上貿易に関してのことを聞いてみたかった。多分、多くの人は、そんな事があったことを知らないだろう。そんな昔のことに関心がないという人も多いに違いない。すべては過ぎ去ったことなのだ。

1) 没薬(もつやく):植物性ゴム樹脂のこと

著者:西江雅之(にしえ・まさゆき)

昭和12年、東京生まれ。言語学・文化人類学者。

主に東アフリカ、カリブ海域、インド洋諸島で言語と文化の研究に従事。多数の言語を話し、土地の人々の生活に容易に溶け込む研究態度で“ハダシの学者”との異名を持つ。

また、現代芸術とのかかわりも深く、美術、音楽活動への参加も多い。教育面では、過去30年の間に東京外国語大学、東京大学、東京芸術大学、早稲田大学などで文化人類学または言語学の講義で教壇に立った。

第二回「アジア・アフリカ賞」受賞(1984)。専門書の他に、エッセイ集『花のある遠景』、 『東京のラクダ』、『異郷をゆく』、半生記『ヒトかサルかと問われても』、対談『ヒトの檻、サルの檻-文化人類学講義』などがある。平成13年11月、JTB旅行文化賞記念出版として『自選紀行集』が刊行された。

また、多くの高校・中学の国語教科書にエッセイが採用されている。平成27年6月14日死去。