食のエッセイ

カンピョウの来た道

 昭和24年(1949)生まれの私が栃木市立第五小学校の3年生か4年生だった頃、
「私は真赤なリンゴです、お国は寒い北の国、……」
 と始まる歌が流行した。私のクラスの担任だった女性教師はこれを元歌にして「カンピョウの唄」を作詞し、クラスの全員に合唱させた。
「私は白いカンピョウです、お国は関東栃木県、……」
 その頃カンピョウが栃木県の特産品だったことは確かで、贈答品も圧倒的にカンピョウが多かった。巻き寿司はカンピョウ巻き、味噌汁の具に使われることも多く、えっ、またカンピョウか、とげんなりしてしまうことすらあった。
 確か氏家町(今のさくら市)だったと思う、初夏の一日、遠足のバスから農家の庭先を眺めると、物干竿のような横木に白く長細いものが沢山干されていて、遠目には包帯が盛大に日光消毒されているところのように見えた。
 すると栃木のもうひとつの名物雷が鳴り響き、不意に夕立が襲ってきた。手拭いを姉さんかぶりにした白い割烹着姿のおばさんたちがわらわらと母屋から駆け出してくると、素早くその白い包帯のようなものを取りこんでゆく。この辺でようやく私はその包帯のようなものが、夕顔の実から帯状に削り出されたもののまだ乾き切ってはいない「原カンピョウ」だと知った。
 そしてある時その歴史を調べたところ、ある大名家の興亡ときわめて関わりが深いことに気づいた。鳥居彦右衛門ひこえもん元忠といえば、徳川家康に仕えた忠臣である。関ヶ原の合戦当時、下総矢作しもうさやはぎ藩4万石を与えられていた鳥居家は、以下のようにつづいていった。
 新太郎忠政(磐城平いわきたいら藩10万石から出羽山形藩24万石へ)—左京亮さきょうのすけ忠恒ただつね主膳正しゅぜんのかみ忠春(信州高遠藩3万200石へ)—彦右衛門忠則—播磨守はりまのかみ忠英ただてる(能登下村藩1万石から近江水口みなくち藩2万石を経て下野しもつけ壬生みぶ藩3万石へ)—以下7代つづいて子爵に列せられる。
 鳥居家は忠政の後、愚かな当主がつづいて1万石へと落とされた。しかし、忠英が幕府の若年寄に指名された英才であったため、ふたたび上昇機運に乗って壬生3万石を得たわけである。
 その忠英が水口から壬生へ持ってきた夕顔の種を北関東特有の黒土に蒔いてみたところ、驚くべきことに西瓜のようにぼってりとした実が次々にみのった。それを見て鳥居家の代々がカンピョウ作りを奨励したため、カンピョウは栃木県の特産品へと育っていったのだ。
 私が「カンピョウの唄」を歌わされていた頃からその値段はいやに高くなり、稲荷寿司に腹巻のように巻きつけて食べる習慣も急速に廃れていった。今、栃木県の名産といえばイチゴのとちおとめ(栃乙女)だから、産物の世界も万古不易とはいかないようだ。

中村彰彦氏

著者:中村彰彦(なかむら・あきひこ)

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。卒業後1973年~1991年文藝春秋に編集者として勤務。

1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念する。

1993年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、1994年、『二つの山河』で第111回(1994年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。

近著に『疾風に折れぬ花あり 信玄息女松姫の一生』『なぜ会津は希代の雄藩になったか 名家老・田中玄宰の挑戦』『智将は敵に学び 愚将は身内を妬む』『幕末「遊撃隊」隊長 人見勝太郎』『熊本城物語』『歴史の坂道 – 戦国・幕末余話』などがある。

幕末維新期の群像を描いた作品が多い。