鳴門の若布
日本語は同音異義語の多い言語で、ワカメということばにしても、「若芽」と書けば若い木や草の芽のこと、「若布」と表記すれば海藻の一種を意味する。
若布は古代から日本人好みの食料だったらしく、平城京から出土した木簡からも、下総国や出雲国から若布が朝廷へ献上されていたことがわかるという(『日本国語大辞典』第二版)。
春先に若布をとるため海に出てゆくのが若布舟、その若布を売って歩く行商人が若布売り、主婦がそれを買い求め、具にしてこしらえる味噌汁が若布汁だ。私も少年時代から若布汁を好んだ者のひとりだが、母は若布とともに豆腐や油揚げの細切りを具として入れることが多かった。
さて、この10月7日、私が徳島県鳴門市の鳴門教育大学講堂において「幕末・明治の日独交流と松江豊寿所長 板東俘虜収容所の『奇跡』の背景」と題した講演をおこなったのは、かつて直木賞を頂いた拙作『二つの山河』(現在、文春文庫)が、第一次大戦中、中国のドイツ領青島から鳴門の板東俘虜収容所へ送られたドイツ兵およそ1千名と、その収容所の所長だった松江豊寿中佐(のち大佐)の文化的交流を描いた作柄だったことによる。松江所長は俘虜たちの音楽活動を許し、ベートーベン『第九交響曲』の本邦初演は、松江がプロデュースしてドイツ人俘虜たちに演奏させたものである。
目下、徳島県は右の収容所の跡地や俘虜たちの残した記録をドイツと協力し、ユネスコの世界記憶遺産に登録しようとしている。そこで以前に松江所長につきあれこれ調査したことのある私に講演の依頼が来た、というわけであった。
その夜、同行の妻と私がチェック・インしたホテルの夕食はバイキング・システム。しかし、ただのバイキングではなく、瀬戸内海の海の幸がこれでもかというように並んでいるのにはすっかり圧倒された。徳島県訪問は5、6回目なので私は身が薄いのに歯応えのある鳴門の若布を好むようになっており、その若布がどこにあるかを探してみた。
すると、あるにはあったが、案内板に書かれているその食べ方には驚かされた。並べられた若布のかたわらには出汁入りの椀があり、火に掛けられた鍋の湯によって「若布のしゃぶしゃぶ」を作れ、と書かれていたからである。
私の前の人がその指示に従って乾燥若布をひとつまみ鍋に投じると、若布はあっという間に鍋一杯にふくれ上がる。その変化も愉快だったが、席に持ち帰って食べた「若布のしゃぶしゃぶ」はしゃきしゃきした味わいで、私は初めて知る舌触りの良さに大いに満足した。
翌日、案内された鳴門海峡で名物の渦潮は見られなかったが、妻は土産に一袋買って帰途についた。この海峡の強い潮の流れに身を揉まれるため、鳴門の若布は身が薄いがしっかりとした歯応えのものに育つのである。
それからすでに一カ月、わが家の食卓には毎晩「若布のお刺身」が出されるのに、乾燥若布は水を入れたボールに入れると一気に大きくなるのでまだなくなりそうもない。
著者:中村彰彦(なかむら・あきひこ)氏