食のエッセイ

思い出の鹿沼こんにゃく

 昭和24年(1949)6月生まれの私は、同31年、栃木市立第五小学校に入学し、年の改まった3学期は鹿沼市立第一小学校で迎えた。栃木県採用の獣医師だった父が、栃木市から鹿沼市の家畜保健所へ転勤を命じられたため転校したのだ。
 今度の官舎も家畜保健所と棟つづき、門前の砂利道を右手へゆくと床屋と駄菓子屋があった。床屋で読んだ月刊漫画雑誌には横山光輝の『鉄人28号』が連載されていたが、まだ28号は誕生しておらず、26号や27号が暴れていた。駄菓子屋では、景品つきの甘納豆を時々買って食べたことをおぼえている。
 鹿沼に来て初めて接した風物は、自転車にまたがったお兄さんがこんにゃくの味噌田楽を売ってまわる姿だった。呼び止めて十円わたすと、お兄さんは自転車を止めて荷台に固定されている木の箱の蓋を開け、湯の中から三角形に切られてすでに串を打ってあるこんにゃくを二本取り出す。そしてよく乾いた布地に包んで水気を取り、手早く裏表に田楽味噌を塗りつけると、仕上げにきなをたっぷりとまぶしてくれる。
 母もこんにゃくの田楽を気に入ったので、私は田楽売りのお兄さんがやってくるとお皿を持って門前に向かうこともあった。母方の祖父は鹿沼の出身だったため母もこの土地について知るところがあったらしく、これは「鹿沼こんにゃく」といって、おいしくて有名なものだ、などと講釈をしてくれた。
 たしかに鹿沼こんにゃくはぷりぷりした触感でありながら、噛んだ時にさくりと裂ける歯触りの良さにも特徴があった。白味噌系の田楽味噌と黄粉の合い性も大変よく、私は鹿沼で過した昭和32年のまだ寒い季節はこればかり食べていたような気さえする。
 それはひとつには、いつしかこんにゃく売りのお兄さんが呼び止めなくても門前に自転車を止め、私が出てゆくのを待っているようになったことと関係がある。私が一日十円の小遣いを甘納豆に使ってしまったため出てゆかずにいると、
「しょうがないわね、はい、これ」
 と、母が十円玉を私の掌に載せてくれることもままあったのは懐しい思い出だ。
 ところが3学期がおわったところで、右のような暮らしは不意に打ち切られた。父が民間企業に転職することになり、私たち家族は今市市へ転居することになったのだ。
 しかし、少年の時におぼえた味覚は舌と記憶によく残るようだ。私は71歳になった今も、妻が夕食におでん鍋を作ってくれ、その中にぷりぷりした三角形のこんにゃくを見つけると、名前も知らなかったお兄さんと鹿沼こんにゃくのことをつい思い出してしまうのである。

2021.03

中村彰彦氏

著者:中村彰彦(なかむら・あきひこ)

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。卒業後1973年~1991年文藝春秋に編集者として勤務。

1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念する。

1993年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、1994年、『二つの山河』で第111回(1994年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。

近著に『疾風に折れぬ花あり 信玄息女松姫の一生』『なぜ会津は希代の雄藩になったか 名家老・田中玄宰の挑戦』『智将は敵に学び 愚将は身内を妬む』『幕末「遊撃隊」隊長 人見勝太郎』『熊本城物語』『歴史の坂道 – 戦国・幕末余話』などがある。

幕末維新期の群像を描いた作品が多い。