信州の蜜入りリンゴと50年
昭和43年(1968)、19歳の私が夏の一カ月間を信州小諸の涼風荘で過ごしたことには前回触れた。
翌年4月に東北大学に入学、仙台市で下宿暮らしをはじめた私は、乗馬部に入ったため夏休みも忙しかった。8頭いる馬には冬期も草を与えねばならないので、夏の間に盛大に青草刈りをおこない、干し草の用意をしておく必要があったのだ。
おかげでこの夏は短期間の帰省しかできなかったが、昭和45年の夏、私はふたたび涼風荘で約一カ月を過ごすことにした。時間を取られ過ぎるため乗馬部を止め、本格的に作家修業をすることにしたからだ。
すると2年ぶりに再会した清水みさ子さんが、私にいった。
「うちの親戚に高二の男の子がおってね、うちの学生村には東京から勉強のよくできる子が集まるから来てみると刺激になるよ、っていったら来るっていうの。時間があったら勉強を見てやってくれんかね」
「いいですよ」
と答えた私とおなじ部屋で寝起きするようになったのは、佐久市岩村田高校二年生だった出沢治夫君。出沢家は地元の旧家だそうで、一族には東大卒が7人、京大卒が1人いる。そのため治夫君にも期待がかけられており、それをプレッシャーに感じたためにこそ治夫君は学生村入りを志願したらしかった。
しかし、その成績は全体の中間程度。どの科目をとっても勉強が遅れていたので、私は朝は6時に起床して早朝特訓をおこなうなど、かなりのスパルタ教育をほどこした。
そして、また仙台にもどっていた9月半ばのこと。治夫君のお母さんから連絡があり、夏休み明けにおこなわれた実力試験の治夫君の成績を伝えてきた。何と治夫君は学年トップの高得点をおさめ、教師や友人たちからも驚かれているという。
やはりスパルタ教育は効くんだな。私はそう思っただけで作家修業にもどっていたが、11月になると出沢家から大きな段ボール箱が届いた。あけてみると信州リンゴがぎっしり詰まっており、私が夏休みに家庭教師の真似事をしたことへのお礼という意味合いと思われた。
この信州リンゴに私が感心したのは、甘味と酸味のバランスがよく果肉がしっかりしているという点だけではなかった。芯のまわりに甘味成分が結晶してその部分が半透明になっており、この部分が特に美味なことだった。
以来、私がこれを「蜜入りリンゴ」と呼ぶようになったのは、治夫君があれからもう50年経ったというのに、なおも毎年、信州リンゴを贈ってくれるからだ。
私は出沢家とのおつき合いによって、信州人の律儀さと信州リンゴの奥行のある味わいのふたつを同時に学んだことになる。
2021.01
著者:中村彰彦(なかむら・あきひこ)氏