食のエッセイ

マツノ書店とふぐのフルコースセット

 マツノ書店は山口県周南市にある古書店だが、長く長州藩毛利家の関係史料を復刻してきた版元としても知られている。一方の私は賭け事やゴルフは嫌い、自動車の免許は持たないという変人(?)なので、三十代の頃から小遣いで歴史史料を購入することに力を入れてきた。
 おのずとマツノ書店から末松謙澄『修訂防長回天史』全13巻、岩波書店版『吉田松陰全集』全10巻などを買い求めることになり、ある日上京された店主松村久さんが私の仕事場を来訪。以来、私は松村さんから出版物について相談を受けるようになり、次のような復刻史料を刊行してもらうことが出来た。
『旧幕府』合本全7巻、北原雅長『七年史』上下巻(①)、『復古記』全15巻、山川健次郎監修『会津戊辰戦史』(②)、山川浩『京都守護職始末』(③)等々。
 ①から③は会津藩の幕末維新史を学ぶ上では必読の史料だが、これらが会津藩の不倶戴天の敵だった長州藩の故地から出版されるのは画期的なことであった。また、マツノ書店がこれら独自の復刻活動を高く評価され、平成19年(2007)の第55回菊池寛賞に輝いたことは私にとっても望外の喜びであった。
 私は同年の『文藝春秋』12月号に「松村久氏の気迫」と題した受賞祝いの小文を寄稿。12月7日の帝国ホテルでの授賞式に出席し、四谷のゆきつけの小料理屋に二次会の席を設けさせてもらって松村家の人々に初めて御挨拶した。
 すると年末に松村さんからファックスが入り、正月にふぐのフルコースセットを送りたい、いつ、何人で召し上がるか教えてほしい、と質問してきた。ことばを飾らず、単刀直入に質問してくるのが松村流である。元旦の昼頃、家族4人で頂く、とファックスを返して以来、わが家では元旦には大皿に盛られて届けられるふぐ刺しやコリコリしたふぐの皮の湯引を味わいながら会津の末廣酒造の銘酒「玄宰」を飲む、という習慣が出来上がった。
 その松村久さんは、平成30年8月10日に85歳にて永眠。私は「中国新聞」から連絡を受け、訃報記事に追悼のコメントを掲載していただいた。
 特記したいのは、その奥様であられる松村京子さんが、その後も年が改まるごとにふぐのフルコースセットを送って下さることだ。周南市のふぐ料理専門店「栄ふく」から届けられるこのセットは大皿にふぐ刺しが美しく盛りつけられ、特製のたれ、ワケギともみじおろしの薬味も別封で添えられていて、着けばすぐ食べられるようになっている。
 これを口にすると、松村久さんの声が耳に甦って懐しさが募るのは、こちらも71歳になったためであろうか。

中村彰彦氏

著者:中村彰彦(なかむら・あきひこ)

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。卒業後1973年~1991年文藝春秋に編集者として勤務。

1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念する。

1993年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、1994年、『二つの山河』で第111回(1994年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。

近著に『疾風に折れぬ花あり 信玄息女松姫の一生』『なぜ会津は希代の雄藩になったか 名家老・田中玄宰の挑戦』『智将は敵に学び 愚将は身内を妬む』『幕末「遊撃隊」隊長 人見勝太郎』『熊本城物語』『歴史の坂道 – 戦国・幕末余話』などがある。

幕末維新期の群像を描いた作品が多い。