食のエッセイ

鮎の塩焼きその他

 鮎を年魚とも書くのは、一年で生を終える魚だからだ。では、中国ではナマズのことをいう「鮎」が、なぜ日本ではアユを指すのか。
 それを知るには、伝説の 神じんぐう皇后が新羅しらぎを討つ直前、アユを釣って勝敗を占った、という話を思い出す必要がある。占いに使われる魚だから「占魚」、この二文字を合体させて「鮎」となるのであり、中国の鮎と日本の鮎は初めから別のものなのだ。
 鮎の塩焼きは家でも行きつけの酒亭でもよく食べるが、立派さで印象に残るのは博多在住の人がドカンと送ってくれたヘラブナのような姿の子持ち鮎と、紀州高野山の麓、紀の川べりの鮎専門の料亭で食した逸品だ。私の亡き岳父は和歌山県橋本市の出身、義兄ふたりと私の妻も同市の生まれなので、岳父の法事の際に鮎専門の料亭を選んだのだ。
 これらの鮎はうなじの辺にゼラチン質がよく乗っていて、はらわたが半透明の薄緑色をしているところに共通点があった。はらわたが黒くなくてこのような色合いを呈しているのは、清流の岩に付着した上質の藻をたんと食べて育ったことを物語る。
 やや異質なものと感じたのは、文藝春秋に入社4年目の昭和52年(1977)初夏に遠藤周作、三浦朱門、永井路子の各氏の講演旅行のお供として訪ねた鹿児島県の某市で出されたあゆの刺身だ。これはまだ3、4センチ程度の稚鮎を頭部、腹部、尾に近い部分とブツ切りにしただけのもので、これを噛むとほのかな香りのあるしっかりとした味わいが口中にひろがる。
 これを一口食べては球磨焼酎のオンザロックをグビグビやるというのが地元流だった。だが各地の漁業組合によっては稚鮎を禁漁としているところもあると思うので、ここはあえて某市とだけ書いておく。
 私の育った栃木県では県北のがわ町が鮎取りの名所で、ここを流れる那珂川では大規模なやなを設けて水をせき止め、一部だけあけてを張っておいて、その上に流れて来る鮎を手づかみにする、という漁法が有名だ。
 少年時代の私はこの梁にゆく機会がなかったが、平成23年(2011)3月11日に発生した東日本大震災の報道がまだつづいていた頃、不意にその機会が訪れた。当時私は軽い脳出血を起こして一カ月ほど入院生活を余儀なくされ、退院後「文藝春秋」6月号に「わが脳出血顛末記」を寄稿した。
 すると宇都宮高校3年の時の同級生で宇都宮市在住の高橋恭司君がこれを読み、私を励ます目的でかつての級友たちにも声をかけて私を那珂川の鮎取りに誘ってくれたのだ。すでに60歳の定年を過ぎた級友たちは髪が白くなったり薄くなったりしていたが、串を打った鮎の塩焼きを頬張りつつ生ビールを飲むうちに、私は18歳の時以来の談笑の輪に感慨を禁じ得なかった。
 鮎は占魚だと前述したが、私にとって鮎は43年ぶりの級友たちとの再会を取り持ってくれた存在となったのであった。

中村彰彦氏

著者:中村彰彦(なかむら・あきひこ)

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。卒業後1973年~1991年文藝春秋に編集者として勤務。

1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念する。

1993年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、1994年、『二つの山河』で第111回(1994年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。

近著に『疾風に折れぬ花あり 信玄息女松姫の一生』『なぜ会津は希代の雄藩になったか 名家老・田中玄宰の挑戦』『智将は敵に学び 愚将は身内を妬む』『幕末「遊撃隊」隊長 人見勝太郎』『熊本城物語』『歴史の坂道 – 戦国・幕末余話』などがある。

幕末維新期の群像を描いた作品が多い。