ひきわり納豆に至る道
生まれ故郷の栃木県栃木市では、母が朝食のための炊事をはじめると、
「納豆、納豆ォ」
と声がして、自転車に乗った納豆売りのおじさんが必ず通りかかったものだった。一包み10円のそれを家族数に見合う分買い求めて丼に移し、薬味のネギと練り辛子を乗せて醤油を注げば一丁上がり。あとは米、味噌汁、漬物さえ用意すれば最低限の食事は出来るのだから、当時の主婦にとって朝の納豆売りは調法な存在だったに違いない。
私はそこまでは思い至らず漫然と納豆を食べていたひとりだったが、昭和36年(1961)、小山市立第一小学校の6年だった時、阿久津君という同級生からややショッキングな話を聞いた。いつも汚れた一丁羅の衣服で登校してくる阿久津君は、登校前に納豆売りをして家計を助けているというのだ。
それでいくらになるのか、とたずねると、阿久津君は答えた。
「1個8円で仕入れて10円で売ると、差額の2円がおれの取り分になる」
吉永小百合の歌う「寒い朝」が流行していた時代のことだが、当時のラーメン代は40円。阿久津君は一日でラーメン代を稼げるのか、と私は余計なことを心配した。
次に蘇える納豆の思い出は、文藝春秋出版局の文藝編集者として芥川賞候補作家石和鷹さん(故人)とつき合っていた平成初年のことだ。酒好き、女好きで知られた石和さん好みの美女のいる下町の一杯飲み屋にゆくと、その美女が半分に切った油揚げに納豆を入れ、爪楊子で口を留めたものを金網で焙って出してくれる。納豆をそのまままるめ、焙って出してくれることもあったが、これは芳ばしくて酒の肴になかなか良かった。
次に私が納豆の味を再認識したのは40歳の頃で、退社後、銀座や新宿に流れることなく帰宅した日には、なぜか納豆茶漬を妻に所望することが多くなったのだ。
すると、ヨークシャーテリヤのコロちゃんがどこからか走って来て「私にも下さい」と目で訴える。その注文に応える日がつづくうち、コロちゃんの下顎から喉にかけては納豆の腐敗臭に覆われてしまい、娘の摩耶子などはコロちゃんが「抱っこ!」と駆け寄ってくると、抱き上げて喉にキスした途端に「臭い!」と悲鳴を上げたものだった。
最近の私は70歳になったので、ガンの予防のため納豆巻きをよく食べることにしている。ひきわり納豆も冷蔵庫に常備していて、妻に納豆オムレツを作ってもらうこともある。
米を一粒一粒割ってから粥にしたものを「割り粥」といい、晩年の豊臣秀吉は歯が悪かったのだろう、「割り粥」を好んで食べた。
大豆を割って発酵させたひきわり納豆も「割り粥」のようなものだから、私もいよいよ老境に差しかかったということか。
著者:中村彰彦(なかむら・あきひこ)氏