食のエッセイ

「ひらき」あれこれ

 魚を背か腹からひらいて干した食品を、「ひらき」と称することはよく知られている。
 私が少年時代から古稀を迎えた今日までよく食べる「ひらき」の代表は、アジとサンマだ。亡き父は特にアジのひらきが好きだったらしく、それを副食にしてもりもりと御飯を食べている姿を幼い私が円卓の一角から眺めていると、ひらきの背骨のない方をむしって私の茶碗に載せてくれることがあった。
 私は大人の男が食事をする勢いの良さに感心していたのだが、父は私がアジを分けてほしいと思っているものと錯覚したのだろう。
 昭和48年(1973)に文藝春秋に入社した私は、その年の冬、上司のH氏に新宿の炉端焼きの店へつれてゆかれ、ホッケのひらきを初めて教えられた。これは姿が大きいのに身離れがよくて食べやすく、すっかり感心してしまった。
 そのころ東京でホッケはまだ一般的ではなく、次の年に婚約した妻をおなじ店へ案内すると、目を丸くしていたものだった。わが家の食卓に今でも時々ホッケのひらきが出されるのは、この時妻がホッケの味を気に入ってくれたことによる。
 最近、西武新宿線の西武柳沢駅近くによい魚屋が開店し、大変おいしいカマスやノドグロのひらきが買えるようになったのも有難いことだ。人は年齢が進むにつれて、肉よりも魚を好むようになるもののようだ。
 さて、私が食べた最小のひらきは何だろう。おそらくそれは、鹿児島で何度か出されたキビナゴのひらきではないか。これはメダカのように小さくて細いキビナゴをいちいち腹からひらき、刺身として頂くもので、土地の人の食べ方を見ると、箸にザッと十匹分ぐらいを掬って口に放りこむ豪快なものであった。
 それでは、最大のひらきは何か。
 かつてこの欄で、若き日に戦争特派員として約一カ月アルゼンチンに滞在したことに触れたことがある。ブエノスアイレスの市場では皮を剥いだだけの羊が解体されないまま売られているのに驚いたものだが、夕食を摂るべくレストランの多い通りにゆくと、羊一頭分がひらきにされてショウウィンドに飾られているのに気づいてさらに驚いた。まえあし、後肢を押し開かれて二本の鉄串で固定され、たこのような姿で炭火に焙られているそれは、入店して注文してみると大変ジューシーな味わいで肉質がよく、この時から私はマトンが好きになった。
 アルゼンチンといえば世界一おいしいビーフェの本場なので、市民は休日には友人、家族を誘い、郊外へ牛を一頭つれてゆく。ついでに薪とバックネット並に大きい金網も持ってゆき、腹からひらいたその牛と内臓をまるまる焼いて食べる。もちろん赤ワインを飲みながらだが、腹一杯になってテントの中で昼寝をすると、また起き出して夕方ないし夜まで食べつづけるのだそうだ。
 これが世界最大の「ひらき」であろうが、このイベントに立ち会う前に帰国せねばならなかったことは今もちと残念だ。

中村彰彦氏

著者:中村彰彦(なかむら・あきひこ)

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。卒業後1973年~1991年文藝春秋に編集者として勤務。

1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念する。

1993年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、1994年、『二つの山河』で第111回(1994年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。

近著に『疾風に折れぬ花あり 信玄息女松姫の一生』『なぜ会津は希代の雄藩になったか 名家老・田中玄宰の挑戦』『智将は敵に学び 愚将は身内を妬む』『幕末「遊撃隊」隊長 人見勝太郎』『熊本城物語』『歴史の坂道 – 戦国・幕末余話』などがある。

幕末維新期の群像を描いた作品が多い。