食のエッセイ

栃尾の油揚げ

 日本列島の本州中部を西南日本と東北日本とに分ける大きな割れ目である大地溝帯は、フォッサマグナと呼ばれる。その西端は日本海側の新潟県糸魚川いといがわ市と静岡県中央部を結ぶ糸魚川・静岡構造線であり、この線の東側と西側ではモグラの種類も違うそうだ。
 私がこの線を初めて東から西へ越えたのは、東京オリンピックを翌年に控えた昭和38年(1963)8月のことだった。父の転勤に従って栃木県小山市の小山中学校2年の第2学期から愛知県の大高中学校へ転校することになり、当時飼っていたセキセイインコの籠を持って夜行列車で名古屋をめざしたのだ。
 翌朝早く名古屋駅に到着した私たち家族は、フォームの立ち食いそば屋で朝食を摂ることにした。出された「きしめん」はなかなかの美味で、油揚げが一枚載っているのが珍しかった。
 油揚げは稲荷鮨にしてよく食べたし、細切りにして味噌汁の具として出されることもあった。だが、それがまるごと一枚ドンブリに載っている姿を見たのはこの時が初めてだった。
 しかも、大高町で売られている油揚げは「きしめん」に載せられるのとはまた別の種類で、関東のそれの半分ほどの大きさしかなかった。これで稲荷鮨を作ると、一口で食べられるサイズのものしか出来ない。
 この経験で油揚げにも東西の差があることを知った私が、新潟県長岡市の栃尾地区とその周辺で人気商品となっている「栃尾の油揚げ」を初めて食べたのは、14、5年前のことだった。この油揚げの最初に目につく特徴は、とにかく大きいことだ。長さ20センチ、幅6センチ、厚さは3センチとまるで厚揚げそのものである。
 食用菜種油を張った低温鍋と高温鍋で一枚ずつ二回揚げられたこの油揚げは、しっかりと油切りされて芯までふっくらしているのが第二の特徴だ。これを弱火でさっと焼いて好みのサイズに切り分け、刻みネギとショウガを載せて醤油で食べる。パリッとした食感とフワフワ感が快く、食用菜種油のさらりとした味わいが実によくマッチしているのが感動的ですらある。
 栃尾の油揚げが土地の名産となったのは、およそ250年前、地元の秋葉神社の神官が何か参拝土産みやげを作ろうと思い立ち、豆腐屋林蔵という者に妙案はないかとたずねたことにあるのだそうだ。林蔵が江戸で修業するうちに思いついたのがこの油揚げだったというわけだが、栃尾は山間やまあいの集落だけに魚介類が手に入りにくい。その魚介類に代わってこの油揚げから植物性タンパク質を摂取出来ることが、長い人気の理由のようだ。
 酒のさかなによく、あたたかい御飯と一緒に食べてもよいこの品の注意点は、焼く時に焦がさないよう、とにかく何度も裏返すこと。パソコンで「栃尾の油揚げ」と打ちこむと明太マヨの油揚げ、キムチ載せの油揚げ等々のバリエーションから入手方法までが紹介されている。
 こういう伝統食の人気が、全国区になってゆくのはめでたい傾向というべきだろう。

中村彰彦氏

著者:中村彰彦(なかむら・あきひこ)

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。卒業後1973年~1991年文藝春秋に編集者として勤務。

1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念する。

1993年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、1994年、『二つの山河』で第111回(1994年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。

近著に『疾風に折れぬ花あり 信玄息女松姫の一生』『なぜ会津は希代の雄藩になったか 名家老・田中玄宰の挑戦』『智将は敵に学び 愚将は身内を妬む』『幕末「遊撃隊」隊長 人見勝太郎』『熊本城物語』『歴史の坂道 – 戦国・幕末余話』などがある。

幕末維新期の群像を描いた作品が多い。