食のエッセイ

ニシンの山椒漬

 よく知らないのだが、一般に「ニシン漬」というと、身欠きニシンに大根、キャベツ、ニンジン、ショウガなどを混ぜ、塩や麹で漬けこんだものを指すそうだ。北海道から東北地方の各地に至るまで、よく食べられている由。
 しかし、私の育った栃木県は「ニシン漬」文化圏に入っておらず、妻も和歌山県生まれなのでニシンは食べることなく育った。
 ところが、私がこの三十数年、歴史の研究や講演のため通いつづけている旧会津藩の故地、福島県会津若松市とその周辺では、ニシンの山椒漬をみなさん実によく召しあがる。これは生から少し加工したニシンの頭部とはらわたを除去したものをニシン鉢に入れ、ニシンー山椒ーニシンー山椒と何段かに重ねてポン酢醤油で漬けこんだもののこと。会津でニシン漬といえばこれのことで、上手に漬けられない女性は一人前の主婦とは認められないそうだ。
 このニシンの山椒漬は、会津のそば屋、酒場、料亭などたいていの店にあるので、行く先々でその店の風味や厚く切ったり薄く切ったりする個性を楽しむことができる。会津の子は小学校に入って運動会の日を迎えると、これを食べれば力が出る、と親からニシンの山椒漬を食べさせられてから登校する、というほほえましい習慣もあると聞いた。
 この山椒漬を漬けこむニシン鉢は会津の本郷焼であり、小さいのは豆腐一丁がすっぽり入るほどの容量。大きいのは洗面器やたらいほどもあり、蓋の上にはかなり重い漬物石を乗せねばならない。その味を決めるのはやはり山椒の質と量であり、たくさん枝ごと入れてできたら実も入れた方がよりおいしく食べられる。
 酒場ではこれが酒のさかなになるが、わが家ではレンジでチンしてあたため、やわらかめにして御飯に乗せて食することもある。これを細かく刻み、チャーハンに入れてもおいしいそうなので、一度試してみたいものではある。
 それにしても、海のない会津でこのような味覚が伝統食となっているのはなにゆえか。それは江戸時代に北前船の寄港した新潟港と会津藩の飛地領津川(新潟県東蒲原郡阿賀町津川)とは阿賀野川水運で結ばれており、会津藩は新潟ー津川経由で海産物を入手していたからだ。
 津川から会津まで物資は陸送となるが、このルートをたどって若松城下までニシンを売りにくる者は若い女性が多いので「ニシンかか」と総称された。「ニシンかか」たちは小袖の裾をはしょり、越後赤染めの腰巻の裾もたくしあげ気味にして白いはぎを見せつけるので、金のない若い衆もついクラリとしてニシンをたくさん買ってしまったものだとか。
 なお、会津料理にホタテやスルメ、棒タラ、鯨の皮などが巧みに使われるのは、すべて新潟ー津川ルートがあったおかげである。
 近年、会津には百歳を越える長寿の人がめだつことが注目され、女子栄養大学がこの謎に挑んだところ、長寿の人にはニシンの山椒漬を好んで食べるという共通点があると知れた。ニシン、山椒、ポン酢醤油の組み合わせから勝れた栄養分が発生するのだそうだが、いま書棚を探したところそのことを書いた本が行方不明になっており、その栄養分の名称をお伝えできなくて申し訳ない。

中村彰彦氏

著者:中村彰彦(なかむら・あきひこ)

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。卒業後1973年~1991年文藝春秋に編集者として勤務。

1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念する。

1993年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、1994年、『二つの山河』で第111回(1994年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。

近著に『疾風に折れぬ花あり 信玄息女松姫の一生』『なぜ会津は希代の雄藩になったか 名家老・田中玄宰の挑戦』『智将は敵に学び 愚将は身内を妬む』『幕末「遊撃隊」隊長 人見勝太郎』『熊本城物語』『歴史の坂道 – 戦国・幕末余話』などがある。

幕末維新期の群像を描いた作品が多い。