食のエッセイ

ノドグロに紅生姜を添えて

 初めて新潟一の料亭「鍋茶屋」に遊んだのは、平成2年(1990)初夏のことだった。
 ここでは、三つのことに感心した。
 出された日本酒は「越乃寒梅」だったが、その燗のつけ方が熱からずぬるからず、実に理想的なあたたかさなのだ。これは、プロのお燗番がいることを物語る。
 そして、私の右側90度の位置に座った酌取りの越後美人のお酌の呼吸がまたみごとだった。私がすいと飲み、盃を卓にもどすと絶妙なタイミングで酒を注いでくれる。すい、とくとく、すい、とくとく、と一定のリズムがつづくので気持ちよく飲んでいると、
「ねえ、私にも下さいな」
 と、私はその酌取りさんから盃を要求されてしまった。私は、酌取りさんは酒を飲まないものと思いこんでいたのだ。
 三つ目は、初めて食べたノドグロの脂の乗った味わいと、その焼いた切り身に添えられた紅生姜との組み合わせの妙に大いに感服させられたことだった。紅生姜は1本きりだが、10センチほどの長さがあり、切り身に半ば乗せられた形で出てくる。
 ノドグロとは赤鯥あかむつのことだから、大変おいしいけれども飲みこんだあと口に脂の味が残る。紅生姜は、その脂の味を取るために添えられるのだ。近頃は流通の進歩のおかげか東京でもノドグロを食べられるようになったが、焼いた切り身に紅生姜を添えて食する習慣まではまだ越後方面から伝わって来てはいないようだ。
 ところでノドグロは、ノドの奥が黒いのでこう呼ばれる。天保14年(1843)に幕府から初代の新潟奉行に指名されて同地に赴任した旗本の川村修就ながたかは、地元商人たちに教えられたノドグロの味を気に入り、月見鯛という名称にしようとした。月夜によく取れる魚だと聞いたためだが、地元商人たちは、
「ははっ」
 と奉行命令に応じたものの、月見鯛ということばを一向に使おうとしなかった。ノドグロという名称はそれほど親しまれていたわけで、月見鯛という単語はまったく流通しなかった二千円札のように越後人に受け入れられることなくおわったのである。
 なおノドグロは数こそ少ないが日本海にひろく生息しているらしく、私は山口県や島根県でも小ぶりなものが開きの干物として売られているのを見掛けたことがある。しかし、小ぶりなものほど小骨が多くて食べにくい。
 そこをよく克服して、小ぶりなノドグロをまるごと煮魚にして出してくれる店もある。松江市の宍道湖しんじこ近くにある名店Yのノドグロの煮魚は、身離れがよくて小骨の気にならない一品。しかもざっと食して頭、背骨ほかを残すと皿をすぐに下げ、その残りを出汁にしたスープを作ってまた出してくれるのには感動した思い出がある。
 と書いてきたら、何だか新潟よりも松江に行きたくなってきた。

中村彰彦氏

著者:中村彰彦(なかむら・あきひこ)

1949年栃木県生まれ。作家。東北大学文学部卒。卒業後1973年~1991年文藝春秋に編集者として勤務。

1987年『明治新選組』で第10回エンタテインメント小説大賞を受賞。1991年より執筆活動に専念する。

1993年、『五左衛門坂の敵討』で第1回中山義秀文学賞を、1994年、『二つの山河』で第111回(1994年上半期)直木賞を、2005年に『落花は枝に還らずとも』で第24回新田次郎文学賞を、また2015年には第4回歴史時代作家クラブ賞実績功労賞を受賞する。

近著に『疾風に折れぬ花あり 信玄息女松姫の一生』『なぜ会津は希代の雄藩になったか 名家老・田中玄宰の挑戦』『智将は敵に学び 愚将は身内を妬む』『幕末「遊撃隊」隊長 人見勝太郎』『熊本城物語』『歴史の坂道 – 戦国・幕末余話』などがある。

幕末維新期の群像を描いた作品が多い。