史上最高のホットサンド
わたくしの五十肩(両腕とも痛くて上がらない)は、徐々に改善のきざしを見せている。リハビリの先生が根気強く揉みほぐし、可動域が狭くてもできるストレッチを指南してくださったおかげだ。
あと、「腕が微塵も上がらないから、買い置きのトイレットペーパーを棚から取れない」問題については、当欄の担当編集さんのアドバイスにより、「そうか、新たなトイレットペーパーを買ってきて、床に置いておけばいいのか!」とようやく気づけた。おかげさまで、お尻も心おきなく拭けている。お尻まで手をのばすのが、痛くてやや困難なのだが、尻を床に置くわけにはいかないので、これはもうストレッチの一環だと思ってがんばるほかない。
こんな調子の身ではあるが、山形県の月山に登ることになった。私はふだん、登山はもとより、運動全般をしない。高尾山にだってひさしく登っていない(東京都にある山。標高五九九メートル。小学校の遠足で行く)。
なのになぜ、無謀にも月山(標高一九八四メートル)に登るのかといえば、まあ仕事の都合だ。しかしずっと登ってみたかったのも事実で、森敦の傑作小説『月山』(文春文庫)を読んだら絶対、注連寺と月山に行きたくなるものだろう。私は形から入る派なので、半年ほどまえに山用の靴を買い、それを履いて、たまに近所の平坦な道を二十分ほど散歩しながら、登山のイメージトレーニングに励んだ。
こうして、満を持して月山に登ったのですが……。通常なら二時間半とされるルートを、八時間かけて山頂にたどりつきました。ぜえぜえ。
ド素人が一人で登るのは不安だったので、月山によく行っている知人女性と、その女性の登山の先生にあたる男性(八十代、めちゃくちゃ山に詳しい)に同行を願った。先達のお二人はとても優しいひとで、ひーひー言いながら登る私のペースに合わせて、うまく導いてくださった。「三十分歩いたら、ちょっと休憩してお菓子を食べていいですよ」とも言ってくださった。栄養補給の意味もあろうが、なによりも、「こりゃあ目のまえにニンジンぶらさげないと、到底山頂は拝めないな」と見抜いておられたからだろう。お二人の巧みな「三浦操縦術」により、リスみたいにしょっちゅうお菓子をもぐもぐしながら、なんとか無事に登頂し(エベレストっぽく言ってみた)、下界に戻ることもできたのだった。
登る途中、山腹の平たい岩に腰を下ろし、昼ご飯を食べた。知人女性のリュックがやけに大きいなと思っていたら、食材やら携帯用のガスバーナーやらが入っていたのだ。
眼下に見える緑の尾根。たまに上ってくる薄い霧。素晴らしい景色を眺めながら、知人女性が手早く作ってくれたホットサンドをいただく。具は、ひとつはピリ辛のツナとチーズ、もうひとつは、コンビニで売っているおつまみの牛タンスモークとチーズを挟んだものだった。気軽に入手できる品で、いままでに食べたホットサンド史上最高においしいものができあがるとは。
いや、山で食べているからこそ、なおさら美味なのだろう。うつくしく雄大な風景と澄んだ空気はもちろんのこと、亀の歩みながら、朝から必死に登りつづけた心地よい疲労。そしてなにより、すごく荷物が重かったにちがいないのに、同行者にほかほかの昼食を振る舞おうとしてくれた、知人女性の心づかい。すべてが重なりあって、究極のホットサンドが爆誕したのだった。
私は心からの感謝を捧げながら、ホットサンドをぺろりとたいらげた。知人女性はアウトドア用のエスプレッソマシンまで持ってきてくれていたので、我々は食後のコーヒーも堪能することができた。これがまた、神々の飲み物かと思うぐらい、香り豊かでおいしかった。ごちそうさまでした。
せめて調理器具を片づけるのを手伝いたかったのだが、迂闊に岩から立ちあがったら、そのまま斜面を転がり落ちそうなほど脚ががくがくしていたので(軟弱)、とりあえず使ったナイフを拭いたり、紙皿をゴミ袋に入れたりと、腰かけたままでも可能な作業にいそしむ。
ゴミが風で飛んだりしていないか、周囲を歩いて確認していた先達の男性(八十代と思えないほどお元気なのである)が、
「おや」
と声を上げた。「あそこに虹が出ていますよ」
谷間に霧と雲の中間みたいな白いもやもやが湧いており、そこに、小さいけれどくっきりときれいな虹がかかっていたのだ。自分のいる場所よりも下方に雲やら虹やらがあるというのが、私にとっては新鮮で、写真を撮るのも忘れて見入ってしまった。先達のお二人は喜ぶ私を見て、「よかったですねえ」とにこにこしていた。
そのときに確信した。たとえ山での食事であっても、一人で食べたら、ここまでおいしくはなかったはずだ、と。空前絶後のゆっくりペースでもいいから、山を楽しんでほしいと心を配ってくださる、先達のお二人といっしょに食べたから、ホットサンドもエスプレッソも忘れがたい美味となったのだ。
下山時にちょっと体勢を崩し、咄嗟に腕を振ってバランスを取るたび、私は五十肩の激痛に悶えた。「ぐおお……」とうめいて、そのつど三十秒ほどフリーズする私を、お二人はやっぱり優しく気長に待っていてくれた。

2023.09

撮影:松蔭浩之
著者:三浦しをん(みうら・しをん)氏
1976年東京生まれ。
2000年『格闘する者に○(まる)』でデビュー。2006年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、2012年『舟を編む』で本屋大賞、2015年『あの家に暮らす四人の女』で織田作之助賞、2018年『ののはな通信』で島清恋愛文学賞、2019年に河合隼雄物語賞、2019年『愛なき世界』で日本植物学会賞特別賞を受賞。そのほかの小説に『風が強く吹いている』『光』『神去なあなあ日常』『きみはポラリス』『墨のゆらめき』など、エッセイ集に『乙女なげやり』『のっけから失礼します』『好きになってしまいました。』など、多数の著書がある。