食のエッセイ

バナナの「皮」はどんな味?

例えばリンゴを食べるとき、丁寧に皮を剥いて食べる人もいれば、皮のままかぶりつく人もいます。リンゴ産地では、剥かないでそのまま食べる人が多いんじゃないだろうか。

だから、「私はK-パックス星人だ」と自称するプロート(ケヴィン・スペイシー)という男が、精神科医マーク(ジェフ・ブリッジス)に「いいですか?」と許可を得て果物鉢からリンゴをとり、皮のまま、しかも芯まで全部食べても、まあ「ちょっと変わった人だな」と思われるくらいで済むでしょう。
けれど、次の面接のとき、こんどはバナナを取り上げて、皮を剥かないでそのままムシャムシャ食べるのをみると、やはり「少し変だな」と思わないわけにいきません。どう考えても、バナナを皮のまま食べて美味しいはずはあるまいし⋯。でも男は食べ終わって満足そうな顔で、「地球の果物は美味しい」と言うのです。

ニューヨークの「マンハッタン精神医学研究所」というところに、ある日その〈異星人〉が別の病院から移送されて来る。医師のマークが担当になり、いろいろ質問するけれど、地球から1000光年も離れた、二つの太陽(連星)をもつ別の太陽系の、その惑星のひとつ「K-PAX」が自分の故郷で、光と、地球では発見されていない「タキオン」という見えない物質を使って、一瞬で地球に来たと言い張るのです。

病院では、いわゆる「多重人格者」らしいとされるけれど、彼の言葉によって、心の病から立ち直る患者たちも出てくるので、医師マークは次第に、 そのプロートの話に引き入れられていく。ただし、ありもしない惑星の話は別として⋯。

ところがある日、その「K-PAX」という惑星が、つい最近、ある天文学者によって発見されたばかり、だがまだ発表されていないので一般人が知っているわけがない、ということになってくるのです。
学者たちに、K-PAXの「公転軌道」を描けるかと聞かれて、プロートは簡単に軌道を図に描き、それが学者たちの計算とほぼ完全に一致するので、みな茫然となってしまう。なぜ知ってるのか聞くと、「だって、私の故郷星だから」と笑うばかりです。

謎が解き明かされないまま、ある日プロートは、「地球にきて5年経つ。今月、7月の27日にK-PAXに帰る」と言います。医師のマークはやがて、5年前の7月27日に、プロートというこの「地球人」に何か重大な事件が起こったに違いないと推理し、ついに、彼の本名が「ロバート・ポーター」で、ニューメキシコに住んでいた男だと突き止める。彼は5年前のこの日、留守中に妻と娘を犯罪者に殺されて、直後に帰宅して鉢合わせした犯人と闘って殺し、その後、川に身を沈めて自殺した(はずの)男だとわかるのです。

7月27日の朝がきて、予告された時間に男の部屋に駆け付けると、ベッドの下に、別人のようにぐったりして言葉も失ってしまったプロート、いや本名ロバ-ト・ポーターが倒れている。ロバートはこのときすでに、「社会不安障害」の重度の緊張症の症状を示し、表情は動かず言葉は発せず、明らかに心を病む病人になっています。でも一方、彼が「一人だけK-PAXに連れて行く」と言っていたその一人、長い間言葉を失っていて、「私には帰る家がない」とだけ紙に書き残したベスが、どこに消えたか、行方不明です。

もの言わぬロバートの車椅子を押しながら、マーク医師が辛抱強く話しかけるシーンで、 この映画『K-PAX・光の旅人』(2001年) は終わりますが、ここに、少なくとも二つ、解けない謎が残ります。

そのひとつは、「姿を消したベスはどこに行ったのか」ということ、もうひとつは、数人の天文学者しか知らない惑星「K-PAX」について、「ロバートはなぜあれほど詳しく知っているのか」ということです。

この映画(監督イアン・ソフトリー)は、小説(原作者ジーン・ブルーワー)の第1部と同じところで終わっています。映画になったのはこの第1部だけですが、小説は1995年から2014年までの間に第5部まで、シリーズとして書き継がれています。でも日本語訳はこの第1部だけしかない。こんな面白い映画の面白い原作小説が、なぜ続編の翻訳が出版されないのか、また、なぜ映画の続編が作られないのか、残念でなりません。

このロバートが、実際には「地球人」なのだとすると、ある耐えられないほどの悲劇を体験したあと、心の内側から〈異星人〉になるしかない、というのはある程度わかっても、そのことが「味覚」にまで影響して、皮のままのバナナを食べて「うまい」と感じるというのはやはり不思議で、興味がつきません。また、彼がほんとに「K-PAX」人、またはその星の何かのスピリット(精霊)が「憑依」したのだとすれば、物語は当然、第1部で終われるはずがないのです。

というわけで、小説は第5部までアメリカで出版されているので、せめてまず第2部まででも日本語訳が出版され、その頃にはハリウッドが映画の続編製作に乗り出す、そういう風に進行していくことを、ぜひとも願いたいところです。

 

東陽一氏

著者:東陽一(ひがし・よういち)

1934年、和歌山県生まれ。映画監督、脚本家。早稲田大学文学部卒。

代表作に「サード」(1978年)(芸術選奨 文部大臣新人賞受賞)、「もう頬づえはつかない」(1979年)(第34回毎日映画コンクール 日本映画優秀賞受賞)、「橋のない川」(1992年)(第47回毎日映画コンクール 監督賞・同日本映画優秀賞受賞)、「絵の中のぼくの村 Village of Dreams」(1996年)(第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)、「わたしのグランパ」(2003年)(第27回モントリオール世界映画祭(カナダ)最優秀アジア映画賞受賞)など。

2010年12月、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を公開。同作品によって、2011年5月、第20回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

常盤貴子と池松壮亮が主演する最新作『だれかの木琴』が、2016年9月に全国公開。

2009年より4年間、京都造形芸術大学映画学科の客員教授をつとめた。