食のエッセイ

去って行ったものは?(その2)

理由はわからないが、井戸が一晩で空井戸になって、水が一滴もない。水がなければ生きていけない。父と娘は、ここから脱出するしかない、と決心したようです。
最小限の生活道具と、これがなければ生きていけないジャガイモを小さな荷車につみ、飼い葉を食べず荷車も曳けなくなった馬を後ろにつないで、「人力荷車」が出発します。

激しい風が吹きつづき、丘の上の大きな木の枝が揺れている。二人は荷車を曳いて斜めに丘を登っていき、やがて大きな木のそばを曲がって丘の向こうに消えますが、でもすぐにまた引き返してくる。どこに行っても同じことだから、と諦めたように見えます。
馬を馬小屋にもどして、父は窓の前にうなだれて坐り、娘は針仕事を終えて食事の準備にかかる。またあのジャガイモの夕食です。窓の外には暴風が吹き荒れている……。

そして、五日目。
ついに、「火が消えていく」のです。
二人は朝、馬小屋に行って、馬の顔にかかっている馬具用の縄をはずし、これでもうお前は自由だ、と言わんばかりに「裸馬」にしてやります。どう話しかけても馬は答えてくれないし、飼い葉も喰わない。ならもうお前はどこへでも行け、ということでしょうか。でも馬は柵で囲われたままだし、出て行ったとしてもその先は……?

一日中を家の中で、水無しで過ごしたあと、今度は突然、家の中が真っ暗になります。
「どうしたの? 真っ暗だわ」
「明かりをつけろ」
竈から小枝に種火を移し、三つのランプに灯をつけていく。ところが、いったんは明るくなったランプが、油がいっぱい入っているのに、すうっと消える。まるで「どこかに出かけていくように」消えてしまう。竈の火を移そうとしても、もう火がつかない。やがてその竈の火も消え、真っ暗の世界になる。

「何が起きてるの?」と娘の声。
「わからん、明日またやってみよう」と父。語り手のモノローグが、そのあとを引き継いで、真っ暗な画面に流れます。
「闇の中に息づかいが聞こえる。他には何も聞こえない。嵐は去り、あたりは静まり返っている」
……不思議なことに、ランプの炎が消えたあと、あの、吹き荒れていた暴風も、いつの間にか止んで、「去って行った」のです。

次の日の、六日目。
昼だか夜だかよくわからないが、真っ暗な背景の前に、食卓についた父と娘の姿が、ぼう、と浮かび上がります。
父親が、自由な左手を使って、木鉢の中のジャガイモの皮をむしり取りながら「食え」という。でも娘は、木鉢に手をかけたまま、彫像のように動かない。
その娘に向かってか、または自分もいれた二人の人間に向かってか、さらにまた、あの馬や、まず最初に生きている気配を消した木食い虫にも向かってか、父は、
「喰わねばならん」
と言うのです。
そう言って、父はジャガイモの皮が剥けたところを口に入れる。もちろん、そのジャガイモはナマなので、口のなかで「がり…」と音がします。食べたというより「かじった」わけです。
そして、映画が終わります。

宗教のことがよくわかっていないのに「黙示録的な」という言葉が、浮かんできたりします。
たしかに、映画の章が「一日目」「二日目」と進んでいくのも気になります。でもなぜ、「神は休んだ」とされる七日目がなく、六日目で終わるのでしょうか。しかも、聖書には神がはじめて「人」を作ったと書かれているその六日目に、この映画の人間と馬は、水なし火なしの、生存の危機にさらされるのです。
生きていくにはナマのジャガイモをかじるしかない。飼い葉をあたえられた馬は、自分で決めたように、食べることをやめた。

だから、うっかり宗教的な言葉でこの映画を語るべきではない、という気がします。むしろここでは、映画の中で何が消えていったのか、「去って行ったものは何なのか」をもう一度数え上げてみて、「凄い……」とかつぶやいてみたりするのがいいと思います。
この映画は、見た人がまず「暗い」とか言いそうな終り方をしますが、でも思い出せば、あの語り手がすでに告げていたではないですか、「……夜にはいつか終りが来る」と。
世界にも映画にも、「暗い夜」はありますが、言うまでもなく、世界も映画も、「明るい」とか「暗い」とかで語り尽くせるほど、単純にできているわけがありません。よく考えてみると、この映画は、「人間にはこの世界のことが、何一つ本当には分かってはいないのだ」と語りかけてくるような気がしてきます。むろん、この監督にさえ、です。

東陽一氏

著者:東陽一(ひがし・よういち)

1934年、和歌山県生まれ。映画監督、脚本家。早稲田大学文学部卒。

代表作に「サード」(1978年)(芸術選奨 文部大臣新人賞受賞)、「もう頬づえはつかない」(1979年)(第34回毎日映画コンクール 日本映画優秀賞受賞)、「橋のない川」(1992年)(第47回毎日映画コンクール 監督賞・同日本映画優秀賞受賞)、「絵の中のぼくの村 Village of Dreams」(1996年)(第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)、「わたしのグランパ」(2003年)(第27回モントリオール世界映画祭(カナダ)最優秀アジア映画賞受賞)など。

2010年12月、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を公開。同作品によって、2011年5月、第20回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

常盤貴子と池松壮亮が主演する最新作『だれかの木琴』が、2016年9月に全国公開。

2009年より4年間、京都造形芸術大学映画学科の客員教授をつとめた。