食のエッセイ

去って行ったものは?(その1)

日本語題名が『ニーチェの馬』で、元の題名が『トリノの馬』。凄い映画です。
監督は1950年、ハンガリー生まれのタル・ベーラ。日本公開は2012年2月でした。
哲学者ニーチェが、昔、イタリアのトリノで、御者に激しく鞭打たれながらそれでも動けない馬の首を抱いて、激しく泣いた。そのエピソードがヒントになっています。冒頭の黒い画面で、男性の声がそれについて語りますが、ニーチェの事件を描く映画ではない。

黒い画面で、語り手が「馬のその後は誰も知らない」と話しおわり、音楽とともに、いきなり、荷車を曳く馬のアップの映像になります。荷車の上に、老人が一人乗っている。原野の一本道に風が吹き荒れ、遠くに夕方の太陽が霞んでいる。
語り手の声に次ぐ、この最初の映像の長さが約4分30秒。この長いワン・カットには、少し大げさに言うと、ハリウッド製のよくあるアクション映画の、100カット分くらいをはるかに超えるような〈内容〉が含まれていて、ちょっと目が離せなくなります。
最初から観客の視線を強くとらえてしまう、そんな美しい映像と、同じ主題を何度も繰り返していく暗示的な音楽。ハンガリーとフランス、スイス、ドイツの合作です。

老人を迎えに出た娘が手伝って、馬を荷車から離して馬小屋に入れる。石壁の家の中で、右手が不自由な父の着替えを、娘が手伝う。父はベッドに横になって休む。
娘は夕食のために大きなジャガイモを二つ、鉄鍋に入れて水を加え、竈(かまど)にかける。そのあと、娘は窓辺に坐って、強風吹き荒れる外の風景をじっと眺めています。

やがて、茹で上がったジャガイモが二つの木皿に一つずつ入り、親子の食事がはじまります。父は左手だけで熱いイモの皮を剥き、塩を振って、イモをつぶしながら手づかみで食べる。これ以外の食物はないのだけど、父は半分ほど残し、あとは捨てます。遅れて食べ始めた娘も同じようにする。外は暗くなり、あとはもう寝るだけ。

暗くなった家の中に、不意に、父の声がひびきます。
「木食い虫が静かだ。58年聞こえた音がピタリと止んだ」。
「どうしてかしら、父さん」と娘が聞く。
「わからん」という父の声。
これで最初の日が終わりますが、この「木食い虫が静かになった」ことこそが、あとに続く、恐るべき出来事の前兆だったのです。

二日目の朝、いつものように家の前の井戸から水を汲んだあと、馬小屋を見に行くと、馬は飼い葉を食べておらず、水も飲まない。
父親が仕事にでかけるために馬を外に出し、轡(くつわ)を噛ませ、荷車をつないで出発しようとするけれど、馬は動かない。手綱で引っぱたいても歩かない。仕方なく、二人は荷車から馬をはずして馬小屋にもどし、この日は、家の中の雑用しかすることがない。

知り合いの男がドアを叩いて、蒸留酒パーリンカを分けてくれと言い、酒を受け取っても帰らずに長話をはじめます。「街はもう風にやられてめちゃくちゃだ、世界は堕落してしまった……」。話がいつまでもつづくので、「くだらん話はよせ」と父親が追い出す。男はわずかな金を置いて、ますます強くなる風の中に出て行きます。

三日目。馬はやはり飼い葉を食べない。人間二人はジャガイモを食べ始めますが、その途中、丘の上に二頭立ての馬車が現れて、こっちにやってくるのが見える。
父親に目配せされ、娘が窓から監視していると、乗っていた七人ほどの「流れ者」らしい男女が井戸を見つけ、勝手に水を飲みはじめる。父親が斧をもって追い払おうとすると、一人の男が馬車に乗る前に「水のお礼だ」と言って娘に分厚い本を渡します。聖書のようですが、娘がページを開くと、はじめに、教会は頽廃したと告発する言葉が並んでいる。語り手の男の声が、娘が読む声を途中から引き取り、その先をつづけます。
「朝はやがて夜になり、夜にはいつか終りがくる……」

しかし、このモノローグの最後は、また不気味な雰囲気を漂わせて、「風は不毛の大地に解き放たれ、猛然と吹き荒れている」という言葉になるのです。
どうやら、この風は、ただの自然現象ではなさそうだ。そう感じられてきます。

そして、四日目の朝。
娘が水を汲みにいくと、井戸は、なぜか空井戸になっている。一滴の水もなくなっているのです。

東陽一氏

著者:東陽一(ひがし・よういち)

1934年、和歌山県生まれ。映画監督、脚本家。早稲田大学文学部卒。

代表作に「サード」(1978年)(芸術選奨 文部大臣新人賞受賞)、「もう頬づえはつかない」(1979年)(第34回毎日映画コンクール 日本映画優秀賞受賞)、「橋のない川」(1992年)(第47回毎日映画コンクール 監督賞・同日本映画優秀賞受賞)、「絵の中のぼくの村 Village of Dreams」(1996年)(第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)、「わたしのグランパ」(2003年)(第27回モントリオール世界映画祭(カナダ)最優秀アジア映画賞受賞)など。

2010年12月、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を公開。同作品によって、2011年5月、第20回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

常盤貴子と池松壮亮が主演する最新作『だれかの木琴』が、2016年9月に全国公開。

2009年より4年間、京都造形芸術大学映画学科の客員教授をつとめた。