食のエッセイ

ヘルシンキの素敵なレストラン

生れた子供を幼いうちに亡くしたイロナ(カティ・オウティネン)は38歳で、レストランの給仕長です。40歳を過ぎた夫のラウリ(カリ・ヴァーナネン)は首都ヘルシンキの市電の運転手。その二人とも、ある日不景気で職を失ってお先真っ暗……。辛い生活が始まり、その描写がえんえんと、また淡々と続く。こんな映画に誰が興味を持つでしょうか。
ところが、その映画が実に面白いのです。

フィンランドのアキ・カウリスマキ監督『浮き雲』(1996年公開)は、その夫婦二人が自分たちのレストランを開くまでを、丹念に描いていきます。なんだそれだけか、と言わないでください。この監督の手にかかると、ただの日常生活が、突然、そのドラマティックな「本性」をまざまざと見せはじめるのです。
イロナが働くレストランのシェフはアルコール依存症で、ときどき暴れます。屈強なクローク係の男でも抑えられないそのシェフを、あっという間に落ち着かせるイロナ。
でもそのアクションを見ているのは従業員たちで、観客には見えません。観客は画面の外の物音を聞いて想像するだけ。やがてナイフとウィスキーをシェフから取り上げたイロナが画面にもどり、静かになったシェフもついてきて一件落着。実に鮮やかな展開です。

38年つづいたその名門レストランの女性オーナー(エリナ・サロ)が店を乗っ取られ、従業員はみなバラバラになります。イロナの夫ラウリはすでにリストラされている。せっかく、新しいソニーの「トリニトロン」カラーテレビをローンで買ったばかりなのに。
二人の就職活動は大変です。ラウリはロシアへの観光バスの運転手に受かりそうだったのに、検査で片耳の異常が見つかってだめになる。イロナはあちこち歩いた挙句、怪しげな小さな食堂で、フロア係とシェフの一人二役をやることになって笑わせてくれますが、そこのオーナーは給料も払わずに姿を消す。

偶然会ったあの名門店の元クローク係が、もう一度レストランをやろう、と言います。
「オーナーは?」
「君だよ。ぼくがクローク係をやる」 
でも、むろん、最大の問題は「資金」です。
イロナはまた仕事探しで美容院に行き、古い免許があると言って雇われそうになったところに客で来たのが、あのレストランの女性オーナー。店は乗っ取られたけど、彼女は裕福、「資金は私が出すから店を開いて」と励まされ、これで難関を突破したわけです。

浮浪者の仲間に入っていた元のシェフを探し出し、しばらくアルコール依存症の厚生施設に入れる。もとの従業員たちもぞくぞくと集まってくる。やがて「自分の店」の改装も済み、シェフもともかく元気で帰って来る。
そのシェフとの料理の相談で、「フィレ肉のプロヴァンス風」という料理の話も出たりして、近頃はあまり聞かない「コンチネンタル料理」という触れ込みです。日本語では「欧風料理店」ということになるでしょうか。

いよいよ開店当日。夫のラウリは「給仕長」らしい正装がよく似合っています。出資者の女性も心配してやってくる。近くにある工事現場のランチタイムを当てにして、手軽でボリュームのあるランチも用意してある。でも、昼になってもなかなか客が来ない。
「誰も来なかったらどうしよう」。
わたしたちの映画公開の初日と同じで、見ていてハラハラしますが、むろん、客が来ないままでこの映画が終わるわけがない。

最初の客が入ってきて、気がつくと店はもう満席になっています。そこへ電話が入って、
「今夜30人のディナーの予約をしたい」
電話を取った給仕長ラウリが、呆然と妻を見る。イロナはゆっくり、「どうぞと言って」
と答えて外に出ます。煙草に火をつけ、空を見上げる。ラウリも出てくる。

夫は妻の肩を抱いて、二人で空を見上げる。男性ヴォーカルの歌声が「空に浮かぶ雲に、君は手をのばす」と歌っているから、二人が見上げているのはむろん、美しい「浮き雲」に決まっています。

東陽一氏

著者:東陽一(ひがし・よういち)

1934年、和歌山県生まれ。映画監督、脚本家。早稲田大学文学部卒。

代表作に「サード」(1978年)(芸術選奨 文部大臣新人賞受賞)、「もう頬づえはつかない」(1979年)(第34回毎日映画コンクール 日本映画優秀賞受賞)、「橋のない川」(1992年)(第47回毎日映画コンクール 監督賞・同日本映画優秀賞受賞)、「絵の中のぼくの村 Village of Dreams」(1996年)(第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)、「わたしのグランパ」(2003年)(第27回モントリオール世界映画祭(カナダ)最優秀アジア映画賞受賞)など。

2010年12月、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を公開。同作品によって、2011年5月、第20回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

常盤貴子と池松壮亮が主演する最新作『だれかの木琴』が、2016年9月に全国公開。

2009年より4年間、京都造形芸術大学映画学科の客員教授をつとめた。