食のエッセイ

鼻の頭にヨーグルトが……

1971年、モンゴルの首都ウランバートルに生まれた一人の女性が、成人してやがてドイツの映画大学に留学し、『天空の草原のナンサ』という映画を作りました。出資はドイツですが内容はまぎれもないモンゴル映画、神話的な美しさをもった作品です。日本公開は2005年で、監督の名前はビャンバスレン・ダバー、これが三作目ということです。

描かれるのは、モンゴルの草原に住む若い夫婦と三人の幼い子どもたち、それにたくさんの家畜と一匹の犬の物語。実在する五人家族の「素人俳優」たちが映画の中に拡げて見せる世界は、素朴さの中に、人間のやわらかくも強靱な生命力を感じさせ、思わず「神話的」と言ってみたくなる。ここでは、映画では省略されることの多い日常の「食」をはじめ、生活の細部が、それ自体がとてもドラマティックな出来事として丁寧に描かれます。

ある日は、住まいの「ゲル」の中で、若い母親が羊の乳を煮沸している。湯気の向こうの草原で、六歳の長女ナンサと妹、末っ子の弟が、燃料用の乾燥馬糞を積んで遊んでいる。

またある日、「ナンサ、手を貸して」と、母親が長女を呼びます。ナンサがくると、母親は荷車の木製の車輪を押し上げ、
「下のチーズをとって」。

荷車の重さで水分を飛ばしていたのでしょう。母親は、表面に白く粉を吹いたように熟成したチーズのかたまりを板に乗せて座り、糸を使って、慣れた手つきで薄く切っていきます。その半透明の薄い黄色がかったチーズの、なんとうまそうなこと!

そばに座ったナンサが「なぜ犬を飼っちゃいけないの?」と聞く。彼女は、拾って来た犬を拾った場所に返してこいと、父に言われていたのです。問いに答えて母親が言う。
「手をひろげて、手のひらを噛んでごらん」。

やってみて「噛めない」と言うと、母は「世の中には、欲しくても手に入らないものもあるんだよ」と娘に教える。こういうことの一つひとつが、六歳の少女の記憶の中に、「人生の事件」として厚く積み重ねられていく。

父親がオートバイに羊の皮を積んで、遠くの町に売りにでかけたあと、ナンサは一人で馬を驅って、羊の放牧にでかけます。

父と長女が留守の間に、妹と弟は母の作ったヨーグルトを食べる。二歳の子が、母親の手からもぎとったお碗の中に顔を突っ込み、食べるというかナメるというか、やがて満足して顔をあげた、その鼻の頭にちょんと白くくっついたヨーグルト。どんな気難しい観客でもつい微笑まないわけにいかないシーンです。

でも、「神話的」な世界でのこと、「食」はむろん、人間だけの特権ではありません。

夏が終わり、一家と家畜が南に向かって移動する途中、末っ子が居なくなって大騒ぎ。

子どもはなぜか、ゲルのあった草原に戻って一人遊びをしています。近くで屍肉をつついていたハゲワシたちが、この小さな人間を見つけ、これはまたとびきりうまそうな次の獲物、とばかり、不気味に、わさわさと羽を拡げて近寄って来る……。

さてこのあとがどうなったか、それはまあ、レンタルビデオででも観てください(笑)。

東陽一氏

著者:東陽一(ひがし・よういち)

1934年、和歌山県生まれ。映画監督、脚本家。早稲田大学文学部卒。

代表作に「サード」(1978年)(芸術選奨 文部大臣新人賞受賞)、「もう頬づえはつかない」(1979年)(第34回毎日映画コンクール 日本映画優秀賞受賞)、「橋のない川」(1992年)(第47回毎日映画コンクール 監督賞・同日本映画優秀賞受賞)、「絵の中のぼくの村 Village of Dreams」(1996年)(第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)、「わたしのグランパ」(2003年)(第27回モントリオール世界映画祭(カナダ)最優秀アジア映画賞受賞)など。

2010年12月、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を公開。同作品によって、2011年5月、第20回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

常盤貴子と池松壮亮が主演する最新作『だれかの木琴』が、2016年9月に全国公開。

2009年より4年間、京都造形芸術大学映画学科の客員教授をつとめた。