食のエッセイ

ふた粒のブドウ

思春期初期の少女が、「いつか白馬に乗った王子さまがわたしを迎えにくる」とロマンティックに夢想するのは可愛いけれども、映画『パンズ・ラビリンス』(2006年)の主人公、十歳をすぎたばかりの少女オフェリアの幻想物語は、かなり切羽詰まっています。現実があまりに過酷で、もう「ファンタジー」の中にしか自分が生きる場所がない、そんな状況なのです(監督はギレルモ・デル・トロ)。

舞台は1944年、独裁者フランコが支配するスペインの田舎村。山中に潜むレジスタンス掃討のため、ヴィダル少尉を隊長とする軍隊が駐留している。そこに、夫の死後このヴィダルの妻となり、妊娠して臨月を迎えたカルメンが、娘オフェリアを連れてやってくる。
けれど、森でウサギを捕っただけの村人親子をゲリラと決めつけ、その場で射殺するようなこの残忍な義父が支配する世界に、オフェリアの「こころの居場所」はありません。

ある夜、母のそばで眠っているとき、小さな妖精が現れて、森の地下迷宮の入り口に導かれます。そこでオフェリアは「パン」(ギリシャ神話の、ヤギの角と脚をもった牧神)に会い、あなたはもともと、苦しみのない地下王国の姫君なのだと聞かされる。
「元の世界を思い出して王国に帰るには、三つの試練を通り抜けなければならない」とパンに言われた少女は、まず森の大木の空洞に棲む巨大なカエルの胃の中から、大きな鍵を取り戻し、次の試練に向かいます。

二つ目の試練。それはドラえもんが「どこでもドア」を作るように、壁にチョークで四角を描き、開いた向こうの部屋から、その鍵を使ってあるものを持ち帰ること。
部屋に入ると、大きなテーブルにご馳走が山盛り、そしてそばの椅子に、人間に似た化け物が坐って番をしているようだけど、この化け物、両方の目の玉を取り出してテーブルの上に置き、ただ眠っているだけに見える。
でも「食べてはいけない」と禁じられているからご馳走は無視、鍵を使って壁から取り出したのは、キラキラ光る両刃の短剣でした。

目的を果たして帰るとき、やはりご馳走の魅力には勝てず、つい、ブドウの粒をふたつ、口にいれてしまう。とたんに怪物が、目玉を両方の手の平にねじ込み、それをかざしてこちらを見ながら襲いかかってきます。

なんとかその危機から脱出するけれど、実はわたしは、このふた粒のブドウは、幻想の中であるとは言え(あるいは幻想の中であるからこそ)、彼女がこの土地ではじめて食べた「ほんとうの食べ物」だったに違いない、と考えています。なぜなら、それは彼女が「食べたくてたまらない」ものだったから。
映画では描かれないけれど、彼女がいつも食べていたのは、ただ「命をつなぐ」だけのものだったに違いなく、このとき食べたふた粒のブドウこそ、彼女の生命を奥深くから支える、「ほんとうの食べ物」だったに違いない。

飢えを満たすだけでなく、そのほかに何か、目には見えないが強い「こころの働き」があってはじめて、「人間生活にとっての大切な食べ物」という意味をもつのだ。このシーンは、そう語りかけてくるように思えます。

そしていよいよ、三つ目の試練。それは、難産で亡くなった母が残した赤ん坊の弟を、あの両刃の剣で突いて血を流すことだとパンに言われ、オフェリアは激しく拒否します。
追いかけてきた義父に撃たれて彼女は倒れ、薄れていく意識の中で、亡き父と母が玉座に坐る地下の王国にたどり着く。パンも出迎える。父王が言う。「弟の代わりにお前が血を流すことこそが、第三の試練だったのだ」。

喜ばしくも悲しいラストシーン。でもこの映画は、決して甘ったるいだけでない「ファンタジー」の傑作です。
あ、もちろん、赤ん坊の弟はレジスタンスの人々に助けられ、残忍な大尉は命を落とすことになるので、ご心配のないように。

東陽一氏

著者:東陽一(ひがし・よういち)

1934年、和歌山県生まれ。映画監督、脚本家。早稲田大学文学部卒。

代表作に「サード」(1978年)(芸術選奨 文部大臣新人賞受賞)、「もう頬づえはつかない」(1979年)(第34回毎日映画コンクール 日本映画優秀賞受賞)、「橋のない川」(1992年)(第47回毎日映画コンクール 監督賞・同日本映画優秀賞受賞)、「絵の中のぼくの村 Village of Dreams」(1996年)(第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)、「わたしのグランパ」(2003年)(第27回モントリオール世界映画祭(カナダ)最優秀アジア映画賞受賞)など。

2010年12月、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を公開。同作品によって、2011年5月、第20回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

常盤貴子と池松壮亮が主演する最新作『だれかの木琴』が、2016年9月に全国公開。

2009年より4年間、京都造形芸術大学映画学科の客員教授をつとめた。