食のエッセイ

「食事が終わったら男たちは……」

「映画と食の深いつながり」をどんどん追求していけば、一つの道は「食」そのものを映画で撮ってしまう、というところに行き着きます。でもわたしの知る限り、そういう映画で面白いものを見た記憶がありません。今日ご紹介するのは、そんな多くの、ペラペラの「レシピ映画」とは全く別の作品です。

とても面白く、また見たあとでも深い考えに誘い込まれるその映画は、今秋から来年にかけて、日本のあちこちで上映される予定のイランのドキュメンタリー作品『イラン式料理本』。監督は1973年テヘラン生まれのモハマド・シルワーニという男性で、映画の中心人物は、監督自身の母とか妻、その他よく知っている女性が7人ですが、そうでないと、とても「女性の城」たるキッチンにカメラを持ち込めなかったでしょう。

イランの主婦たちが料理にかける時間は大変なものです。ある女性は、これから豆ピラフを12人分作る、といって料理の順番を説明しますが、ほかにもいろいろ作るので料理をはじめたのが午後6時過ぎ、完成が夜10時近くです。彼女は「女は餓死しない、いつも味見するから」と明るく笑うけど、料理の所要時間がわかりますかと監督に聞かれた旦那は、「30分か1時間だろ」などと、気楽なものです。この奥さんは14歳で40歳の男に嫁ぎ、人生の大半を台所で過ごしてきたと言います。

監督の妹は、双子の男の子を育てながら大学通い。ある夜は6時間かけて作った料理が15分で食べられてしまう。夫は「料理には才能が必要、問題は段取りだ」なんて簡単に言う。でも別の時間に兄に質問された彼女は、「男は威張りたいから女の仕事を見下している」とつぶやき、何か考えている様子です。

イランの多くの女性は、どうにか「忍従」の生活に自分をなじませていくようで、監督の義母は冗談のように、夫の実家で13年暮らしたので二人だけの時間は毎日1時間しかない、 だから二人きりになると「夢中でイチャついて、気がついたら子どもが5人」と笑って言う。でも次第に、これはただの無邪気な、楽しい笑いだとは感じられなくなってきます。

そしてついに、見ていてギョッとする瞬間がきます。それは、監督自身がある夜突然、友人を10人連れて帰ったときのこと。
奥さんは「炊飯器は8人分だからあとの2人は我慢して」とはじめにきっぱり言います。どうにか深夜のパーティが終わって客たちが帰ったあと、監督は妻に「イランの男にはイランの伝統を守る義務があるんだ」と言う。それに対して、若く美しい妻は「夜の10時半に10人も連れてきて妻に接待させるのが?」とクールに反問する。

その会話の前だったか、あるいは後だったのか、あまり怖い言葉だったのでつい前後を忘れてしまったんですが、彼女が、独り言のように、静かな口調で言うのです。

「食事が終わったら男は政治を語り、女は、その首を一人ずつ切り落とす夢を見る」

映画の最後に、また別の怖い情報が字幕で伝えられますが、それは映画で確かめて頂くとして、さて、「それはたしかに怖いセリフだが、イランと日本は違うから」などと、さらりと言える日本人の夫はどれほどいるだろうか。それを推測するのもちょっと怖いから、この話はここでやめにしておきましょう。

東陽一氏

著者:東陽一(ひがし・よういち)

1934年、和歌山県生まれ。映画監督、脚本家。早稲田大学文学部卒。

代表作に「サード」(1978年)(芸術選奨 文部大臣新人賞受賞)、「もう頬づえはつかない」(1979年)(第34回毎日映画コンクール 日本映画優秀賞受賞)、「橋のない川」(1992年)(第47回毎日映画コンクール 監督賞・同日本映画優秀賞受賞)、「絵の中のぼくの村 Village of Dreams」(1996年)(第46回ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞)、「わたしのグランパ」(2003年)(第27回モントリオール世界映画祭(カナダ)最優秀アジア映画賞受賞)など。

2010年12月、「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を公開。同作品によって、2011年5月、第20回日本映画批評家大賞・監督賞を受賞。

常盤貴子と池松壮亮が主演する最新作『だれかの木琴』が、2016年9月に全国公開。

2009年より4年間、京都造形芸術大学映画学科の客員教授をつとめた。