春を迎える心さまざま
日本の暦は、立春などの二十四節気をはじめ、とても風情があって良いものです。しかし、もともと旧暦に即していたのが新暦に移されたからか、立春とは言っても、2月の4日や5日では、春というには寒すぎる、という感覚もぬぐえないのが正直なところです。
たまたま正月に歳時記の本を眺めていたら、「ちぐはぐの下駄から春は立ちにけり」という、立春の頃を詠んだ一茶の句が記されていました。私は俳句のことはよく分かっていませんが、なんとも想像力を掻き立てられる、ほのぼのとした気配がします。年端のいかない子が、春の陽気に誘われて下駄をつっかけて外へと駆け出したのは良いが、うれしくて急いだあまり、左右バラバラの下駄だった、というのが私の想像ですが、さてそれであっているのかどうか、皆さんはどう読むのでしょう。

一茶には「三日月は反るぞ寒さは冴えかへる」という、キリッとした気分の緊張した句もあります。夕刻に西の空を見上げると、そこに三日月がかかっていて、心が引き締まるような寒いさまを詠んだ句です。ここで「冴えかへる」というのは、春に一旦緩んだ寒さがまたぶり返している春寒の様子をさす季語なのだそうで、これなどはやはり俳句についてのいろいろを知らないと、正確な理解は難しい例ですね。
ほかにも一茶には「我村はぼたぼた雪のひがんかな」という、故郷信濃の村における彼岸の雪を詠んだ句もあります。必ずしも幸せな生涯を送ったわけでもなく、1827年に没した小林一茶という人が、なんとも素晴らしい観察力や表現力を備えていたことに、改めて感嘆させられた正月でした。そしてまた、時間の進みの感覚や季節の移ろいの感じ方が、同様な風土に生きる人間ですから当然重なる部分もありながら、江戸期と現代とでは、暦のあり方や時代環境の違いによって相当に異なっていることにも、改めて感じ入るのです。
彼岸は、春分の日を中日として、その前後7日間をさしますから、これは太陰暦の旧暦でも、太陽暦の新暦でも同じことになります。今も言われるように、秋彼岸も合わせて「暑さ寒さも彼岸まで」ということになるのですが、人間活動に由来する気候変動の影響は、この表現のリアリティを帳消しにしつつあるようで、鬱陶しくも悲しいことです。
それでも彼岸といえば、すぐに「おはぎ」(萩の餅、牡丹餅)などを連想するのは、美味しい餡の和菓子が大好きゆえの私の邪念で、以前の回でも記した気がします。もっとも、彼岸のおはぎだけではなくて、春には、三月三日の節句につきものの蓬(よもぎ)の深緑色が美しい「草餅」、あるいは、塩漬けの桜の葉で包まれて、柔らかな桜色が際立つ「桜餅」、いやいや椿の葉で上下を挟んだ「椿餅」だってある、という具合で、自然の移ろいや、時季を象徴する自然と合わせる想像力と創造性が豊かだったことは、これらの菓子を創り出して伝承してくれた昔の人たちの方が、今よりはるかに優れた感性を持っていたのかもしれません。確かにいまも、「いちご大福」などが登場して、これはこれでとても美味しいのですが、苺を生産するのに、露地ものは姿を消し、ほぼ全てビニールハウスで管理された仕組みになっているようで、確かに生産農家のご苦労と工夫は分かるのですが、ハウスの維持管理に灯油や電力を使う、農業の産業化とでもいうべき体制に特化されていくのが良いのかどうか、これは苺についてだけではありませんが、そういう思いもぬぐえません。何が社会にとって進歩なのか、難しい。
小林一茶は江戸中後期の俳人ですから、暖をとるといえば、せいぜい火鉢か囲炉裏だったでしょう。綿入れなどをまとっていたとしても、土地柄によって、寒さは半端なかっただろうと想像されます。しかし終戦直後に生まれた私らの世代にとっても、子供の頃、石油ストーブが普及しだす1960年代に入る頃まで、冬といえば火鉢か炬燵だけでしたから、今より随分寒かったはずです。私は吉祥寺に住んで以来70年も経つのですが、建て替える前の我が家では、銅でできた小さな火鉢を私の専用にしてもらい、椅子に腰掛けて足を火鉢の縁にのせて暖をとりながら、本を読んだりしていたことが、記憶の底からよみがえります。自慢できるスタイルではありませんが。
その古い家では、台所の先に土間があって、そこに、円筒形をした練炭を入れる小型コンロがときどき置かれ、じっくり煮込む豆料理などには適したものでした。私は火を起こすのに器用だったみたいで、小学生の頃は面白がっていろいろ手伝ったことが思い起こされます。今は家が建て込んでしまい、煙が迷惑になりますし、防災の観点からも焚き火はしないようになりましたが、以前には庭の隅や門口を出たところなどで、掃き集めた落ち葉を焼いたりしたものです。拙宅の子供が小さい頃に一時住んでいた借家では、落ち葉焚きをして焼き芋を作り、大家さんのお孫さん達まで呼んで一緒に楽しんだりしたものです。これは秋の話ですが、昭和の終わりに近い時期のことですから、その後の変化は恐ろしく加速したとも言えそうです。それが良い変化かどうかは知りませんけれど。
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日本とはユーラシア世界の逆のはしに位置するヨーロッパでも、多くのところで2月は、冬を送り、春を迎える準備にかかる時期にあたります。特にかつての農業と手工業が主体の伝統的な社会にあっては、そうでした。そして、そうした季節の移行を画すうえで特別な性格をもった行事が、カーニバル(フランス語ではカルナヴァル、その元となったイタリア語ではカルネヴァーレ)でした。
今では、リオのカーニバルが有名です。日頃はリオの中でも貧困地区とも言われるような一帯に住んでいる人たちが、地区の共同体ぐるみで一年かけて準備を進め、カーニバルの間、町の中心部に設営された会場の通りに巨大な山車を出して、強烈なサンバのリズムに合わせて女性を中心に男女が踊りまくるページェントは、私も画面でしか見たことはないのですが、そのエネルギーには、ただ呆気にとられるほど強烈な印象があります。この強烈なインパクトで、リオのカーニバルは世界的なイベントになった、といえるでしょう。しかし、冬送りどころか、カーニバルを真夏の祭典とイメージするのは、リオが南半球にあって、カーニバル発祥のヨーロッパとは季節が逆転するからなのでした。今では当のヨーロッパでも、世界各地でも、ビキニスタイルでサンバを踊って進む行列が出し物の祭典が、時期を問わずカーニバルと言われ、さらにはカーニバルという言葉は、賑やかで大きな祭典だということをアピールするための、一般的なネーミングにもなった、と言って良いようです。
このリオのカーニバルは、19世紀半ばにリオデジャネイロの文化人たちが、パリの民衆を中心としたカルナヴァルが、楽しげで、しかも独特な社会的意味、ないし政治性を持っている様相を知って、これをリオでも始めようではないかと仕掛けたことが起こりだと言われています。その頃のパリでは、飽和状態の中心部から追いやられて町の周辺地区で、つましく暮らさざるを得ない民衆階層の人々が、カーニバルに際してはさまざまに扮装して行列をなし、踊ったり、支配階層をおちょくる寸劇を演じたり、道化を王様に、王を乞食に、と言った逆転を表現したりと、歌や踊りを混ぜながら、自分たちの住む周辺部から中心部へと繰り出して、自由気ままな祭りを展開して多くの市民を巻き込んで、数日を楽しんでいたのでした。一種の「ガス抜き」ともいえますが、しかしこうした経験が、実際に我慢が限界にきて爆発した1830年七月革命や、48年二月革命の武装蜂起の伏線になった、といえるかもしれません。
カトリックのヨーロッパでは、キリスト教の宗教暦における大斎節、つまり肉食・大食を避けて野菜中心のつましい食事で過ごす期間が、かつては設定されていました。クリスチャンには自明のことでしょうが、キリストの復活祭、イースターの日付はちょっとややこしく、春分の日の後の最初の満月の後にくる最初の日曜日に、設定されます。その復活日である日曜日の直前にある金曜が、イエスが十字架にかけられた受難日、そしてその週は受難週ないし聖週と名づけられ、その聖週に入る直前の日曜日、つまり復活日の一つ前の日曜日は、「枝の主日」と言われます。イエスがエルサレムに入城するにあたり、棕櫚の枝を敷いて滑らないように配慮した人びとが道の両側から歓迎して見守った、と言われる故事に由来する命名です。
この復活日前日の土曜日から遡る46日間のうち、6回の日曜日は除外した40日間が、「四旬節」ないし受難節と言われる大斎期間とされていました。イエスが荒野で40日間の断食をしてひたすら祈りを捧げたことに倣う、という意味が込められたわけです。精進期間が実際にどこまで守られていたかは判然とはしませんが、この肉断ちの期間に入る水曜日は「灰の水曜」と呼ばれ、その直前の火曜日がフランス語ではマルディ・グラ、つまり「脂肪の(肉の)火曜」という名で呼ばれ、「肉よさらば」ではありませんが、明日から精進期間に入る覚悟を定める日とされました。この水曜前の日月火の3日間がカルナヴァル(カーニバル)とされることが広く行われていたのですが、3日間だけでなく、もっと前から連続していたところもあり、それぞれの土地ごとに根づいた風習が成立していた、ということでしょう。
カトリックの本拠イタリアでは、もともとヨーロッパ全域に広がる前から、おそらく古代ローマ世界での季節的祭礼を引きついで、カーニバルの原型が一種の豊穣儀礼として行われていたと推測されています。むげに禁止すると異端的な方向に走りかねない、と危惧したのかどうか、異教的要素にみちたカーニバルをどのように手なずけて教会の暦に組み込むか、カトリックのトップである教皇と教皇庁も腐心したようで、15世紀後半の教皇パウルス2世の頃から、祭礼時の武器の携行など危険な行為を禁じた上で、騒ぎを伴う祭礼を膝下のローマで認可したそうです。イタリアでは教皇庁と各地の市民たちとの駆け引きの中で、なんと、前回出てきた1月6日の「公現日」から「灰の水曜」までの1か月余りの期間に、各地で信心会を巻き込んで断続的に行われるようになり、18世紀には、仮面を着用した仮装や変装によって、階層序列のきつい日常から脱した世界を演じることも広まり、実際に舞台を作っての演劇も男の演者だけでなされたそうです。歌舞伎みたいに本格的であったかは、知りませんが。

カーニバル・ド・パリ(iStock.com/Razvan)
しかしこうしたイタリア都市でのカーニバルの推移は、どこの地域にも当てはまったわけではなく、フランスでは先述のパリをはじめ、主として都市で「灰の水曜」直前に賑やかに実施され、19世紀末からはパリやニースでのカーニバルは、折からの観光ブームの開始にのって規模が大きくなって行きました。
春の到来に、より敏感であった農村部では、かつてはそもそも肉食とは縁遠い食生活が日常でしたから、より一層のこと、農作業が本格化し始める春招きの意味合いの方が大きかったのではないか、と想像されます。そして、農村部ではカーニバルと並んで、春を招く意味合いで重視されていた、しかし現在ではほとんど廃れ、忘れられてしまったと思われる儀礼的な行事に、2月2日の教会における「ロウソク祝別」の儀礼がありました。前回あげたメノンとルコテの本でも話題にされているのですが、だいぶ長文になってしまいましたので、これについては、いずれ書く機会があればにしましょう。早く本格的な春がきて、暖かい季節になればと願いつつ。
2023.02

著者:福井憲彦(ふくい・のりひこ)氏
学習院大学名誉教授 公益財団法人日仏会館名誉理事長
1946年、東京生まれ。
専門は、フランスを中心とした西洋近現代史。
著作に『ヨーロッパ近代の社会史ー工業化と国民形成』『歴史学入門』『興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権』『近代ヨーロッパ史―世界を変えた19世紀』『教養としての「フランス史」の読み方』『物語 パリの歴史』ほか編著書や訳書など多数。