食のエッセイ

ビュッシュ・ド・ノエルは幸せへの祈り

 もう70年近く前から住んでいる私の家の近くにも、最近ではフランス風のお菓子屋さん、いやケーキ屋さんが増えてきました。パティスリーとフランス語風に、お店を名乗っているところもあります。すでによく知られているように、日本のパティシエ、つまりフランス風ケーキ職人さんの腕前は、本場のプロに負けない質を評価されるようになって随分たちますから、お店が増えて行くのもよくわかります。食べる私たちにとっては嬉しい限り。私は甘辛両党なもので、これは大歓迎。日本の和菓子職人さんの腕前も、本当に素晴らしいものがあって、餡子(あんこ)もそうですが、葛や練り切りでできた和菓子の見事な姿形を見ると、これはもう食べるのがもったいない気がします。ケーキか和菓子か、といった二者択一はありえない話です、少なくとも私にとっては。優れたものは値が張る、と言うのが玉に瑕ではありますが、でもたまには贅沢を承知で職人さんたちの腕を楽しみたい、といつも思っています。

 そのパティシエたちが年の暮れになるとお店に並べるケーキの一つに、ビュッシュ・ド・ノエルがあることも、パティスリーの増加とともに、日本で知られるようになってしばしの時が過ぎました。ロールケーキみたいな形をしているのは、フランス語でビュッシュというのは薪のことで、ノエルはクリスマスのことだからです。つまり「クリスマスの薪型のケーキ」です。日本ではいつからか、クリスマスケーキというとイチゴのショートケーキが広まったように思いますが、フランスでは圧倒的に薪型の「ビュッシュ」なのです。

 フランスでこのお菓子がいつ頃から店頭に顔を見せるようになったものか、これはお菓子の歴史を調べている方に聞かないと、私もよく知りませんが、おそらく、そんなに昔のことではなかったのではないか、と想像されます。と言うのも、20世紀の半ば頃までは、少なくともフランスの農村地帯では、お菓子ではなく、本当の太い薪を火にくべて暖と明かりとを家族で共有しながら、クリスマスを迎える、という風習が広く行われていたからです。その薪こそが、元祖ビュッシュ・ド・ノエルです。

*    *    *

 フランスといって、パリのような政治の中心で、芸術文化の先進的試みが発信される都市だけをイメージすると、これはとても偏った見方になります。1年前からこの連載をさせていただくにあたって、地方での経験から話を始めたのには、そんな思いも強くあったからでした。フランスは、19世紀半ば以降、一方で工業化と近代化が進展しながら、他方では、中部や西部、南部を中心に長らく小規模の農業経営が連綿と続いたことで、農村人口が激減していったイギリスやドイツなどとはかなり異なっていました。むしろ、その点では、戦後復興を経て、1960年代の高度経済成長期に入るまで、中小規模の農業経営が、豊かな里山や谷戸の形成とともに広く存続した日本の場合と近いのです。フランスでも、ちょうど1960年に「農民の終わり」を指摘する社会学者の著作が出されたように、小規模な農業経営から、アグロビジネスと言われるような機械化を伴う大規模な経営へと中心がシフトし始める、あるいは協同組合方式などで経営を維持する方向への転換などが、生じていきます。

 そして日本の場合に、その戦後の変化の状況を踏まえて、民俗学や地域史の研究者たちが、このままでは失われて行くに違いない技術や習俗のあり方を、丹念に調査して記録に残してくれたことが、今になってはとても貴重な遺産として残されています。例えば、民俗学者宮本常一さんの『忘れられた日本人』(岩波文庫)に収められた仕事は、農山漁村の現場に身をおいてなされた素晴らしい調査と考察の記録です。
 

AU VILLAGE DE FRANCE
la vie traditionnelle des paysans

 実はフランスでも、人々の生活習俗の研究(民俗学、フランス語だとフォルクロール、英語のフォークロアです)は、早くは19世紀半ばから活性化し始め、その後も二度の大戦という災禍をへながら、このまま調査記録しておかないと、自分たちの社会の基盤を形成していた農山漁村の習俗が忘れさられてしまう、という強い危機感とともに、粘り強く続けられていたのでした。そして、ナチによる占領から解放されたすぐのちの1945年、ピエール・ルイ・メノンとロジェ・ルコテという二人の民俗学者の手によって、それまでに蓄積されてきていた研究調査の成果が『フランスの村で:農民たちの伝承生活と人生』と題して、一般の読者にも分かりやすいように挿絵や写真も入れてパリの出版社から刊行されたところ、爆発的に売れたそうです。私が手元に置いて楽しく学んできたのは、1954年に増補改訂版として出されたその本が、また1978年に、今度はマルセイユの出版社から復刻されたものというわけで、かなり古色蒼然としている活字体や、古めかしい写真や手書きの図版などがそのままで、私などにはかえって嬉しいような、小型のペーパーバックです。
 

 さて、その本によると、それぞれの地域によってやり方もそれぞれでしたが、多くのところで共通するのは、一家の父親がとりわけ太い薪を用意して、イヴの夜に村の教会でのクリスマス・ミサに家族で出かける前に、炉にその薪をくべて何日間も燃え尽きないように仕立てる、という方式でした。現実的には明かりと暖を与えてくれるように、ということですが、イエスの生誕はこの世に光をもたらしてくれる意味でしたし、また一家にこの先一年、暖かい雰囲気が絶えないように、という意味合いもあったと言われています。

暖炉の前に皆で集って薪をくべ、娘たちが箒で床を清めている。フランス中部、トゥール近くにあった農村家族のイヴの情景。(1873年『ル・モンド・イリュストレ』より)

 かつての農民たちの時間の観念は円環的、ないし循環的であった、とも言われます。一年の日々の移ろいはサイクルとしてイメージされ、毎年また然るべき時に然るべく行事や祭礼、そして仕事の手順が順調にきて進むように意識された、ということでしょう。嵐や災厄、戦禍などが生じれば、円環のリズムは狂うことを余儀なくされますから、それは避けたいというのが正直な気持ちだったというのは、よく理解できます。これは日本でも同様でしょう。

 さてフランスの農村における一年のサイクルで、クリスマスと対称をなす位置にあると意識されたのは、半年前に位置する6月24日の聖ヨハネの日でした。このヨハネは、キリストに洗礼を施したというバプテスマのヨハネのことですが、ちょうど夏至にも近いこの日には村のお祭りとして、皆で巨大な焚き火を屋外で燃え上がらせ、日本にもある火祭りのような祭礼を村人総出で敢行したのでした。近づいてきている収穫が無事進みますように、という意味が込められた、一種の豊穣儀礼であったと言われています。他方、クリスマスは、夜が長く本格的な寒さに向かう、冬至のすぐ後に隣接した時期にあります。また昼が伸び始め、一年の暦が新たに始まると同時に、聖ヨハネ祭とは反対側に位置して、屋外行動も困難な時期ですから家の中で、生命が燃える象徴でもある火が、薪をくべる行為で示されているというわけです。一見するとなんでもないような行為に、象徴的な意味が与えられているという儀礼的なあり方は、何もフランスに限らず、ヨーロッパにも限らず、日本を含めて広く観察できることでしょう。何か欲得づくのことが余りに目につく現代社会より、物質的には大変でもはるかに豊かな精神性が宿っていた、と言ったら言い過ぎでしょうか。

 そういうわけで、クリスマスは、新たな一年が再生してまた始まる期間に位置するビッグ・イベント、という意味合いを持っていたのでした。当日のイエス誕生とその前夜を祝う意味だけでなく、まずはクリスマスのほぼ4週前、11月の末近くから始まる待降節(アドヴェントゥス、フランス語ではアヴァンと言います)からの連続のなかに位置していました。そしてクリスマス当日が過ぎれば、大晦日の聖シルヴェストルの日を超えて1月6日の公現日(フランス語ではエピファニー)までの12日間、その期間の重要な出発点として位置する日だったのです。ちなみにドイツ語圏などでは「12夜」という呼び方ですが、フランスでは、昼の意味でも1日の意味でもあるジュールという語を使って「12ジュール(12日間)」と表現されます。よほどお日様が恋しい、ということでしょうか。それにカトリック圏では中世以来というもの、夜は悪魔や魔女、魑魅魍魎が跋扈する、危険な時間帯とみなされていました。もう世俗的な初等教育も普及する19世紀末になっても、フランスの少なからぬ農村部では、習俗の中にそうしたマジカルな発想が尾を引いていたことは、フランスの民俗学者や歴史人類学者によって、指摘されてきたところです。

*    *    *

 1月6日の公現日は別名「三王の日」とも言われ、ベツレヘムに生まれたイエスを、東方の3人の王たちが「救世主」の誕生だとお祝いに駆けつけた、という物語に基づいて定められた日のことです。この日に農村の各家庭ではガレット(一種のパイ)を焼き上げて、その中にソラ豆(フランス語でフェーヴ)を一つ入れておきました。ガレットを家族皆で切り分けて食べる際に、その豆が入っている切片に当たった人が、その年の王または女王になって、望むことを皆に命じることができる、という、家族円満を示す一種の運試しのようなゲームです。正確にいつからかは分かりませんが、この楽しみは町にも広まります。パン屋さんやケーキ屋さんが、フェーヴの入ったガレット(三王の日なので「ガレット・デュ・ロワ」と言われます)を公現日に売りだすようになり、中に入れるフェーヴは、陶器の小さな人形などにグレードアップしました。私が初めて公現日のガレットにパリで遭遇したのは、もう半世紀近く以前ですが、由来を面白おかしくフランス人家庭で聞かせてもらいました。しかし、陶器の人形を間違えて飲み込んだら大変だなあと、心配したことも覚えています。日本でも、フランス菓子のお店が増えるとともに、このガレット・デュ・ロワも広がってきています。私と同じような心配をするパティシエもおいでのようで、最近ではまた豆が入れてあったり。アーモンドの場合が多いようで、まだ元来のソラ豆に出くわしたことはありませんが。

 また、ワインで有名なブルゴーニュ地方の西側に位置しているモルヴァン地方では、クリスマス・イヴに焚きつけられたビュッシュ、つまり大きな薪が、公現日まで燃え尽きないようにした、とルコテさんたちは書いています。本当にそんなことが可能だったのかは、そうした伝承の技を持たない僕らには、想像を超えますけれど。

 日本では、大晦日を過ごしてお正月を迎えることは、とても大きな位置を占めていますが、フランスでは他の欧米諸国と同様、かつては正月を迎えることには取り立てて大きな位置を与えているわけでもなかったようです。最近では大晦日の聖シルヴェストルの日から1月1日に移る際に、カウントダウンをして花火をあげたりすることもみられるようですが。実際に現在でも、休みとなるのは1月1日のみで、2日からは全く普通の生活に戻る方が通常です。ただ、かつての農業地域での風習では、フランスのみでなくヨーロッパの各地で、この時の太い薪から残った燃えさしの炭が、一年を通じてお守りとして保存されたと言われます。火事やヤケドなど火による災難から守ってくれるように、と。同類をもって同類を制する、という人類学が各地で記録している慣習の一です。

 そしてまた、大晦日に子供達が近隣の家々を訪問して緑の葉のついた枝を渡し、代わりに胡桃の実やりんごなどをお祝いにもらう、といった風習があった地方もあり、近隣の付き合いを豊かに深めると同時に、春招きの意味があったと思われます。日本ではあまり見かけないように思いますが、冬の落葉樹の大木の枝先に宿り木の丸い緑が見えることが、フランスなどの潅木林ではあります。常緑の宿り木も生命を象徴する印として、目にできれば縁起がよいとみなされました。冬本番に入りつつある頃に、緑の束は、やがてまた巡ってくる春を予感させる、期待させてくれるものなのです。日本で正月に、緑の松の枝を用いた門松を置くのと、発想は同じですね。

 随分話が長くなりました。そろそろ餡子の和菓子かフランス風のガトーが食べたくなってきましたので、この辺にしましょう。来年こそは、多少は良い年になるよう祈ります。

2022.12

著者:福井憲彦(ふくい・のりひこ)

学習院大学名誉教授 公益財団法人日仏会館名誉理事長

1946年、東京生まれ。
専門は、フランスを中心とした西洋近現代史。

著作に『ヨーロッパ近代の社会史ー工業化と国民形成』『歴史学入門』『興亡の世界史13 近代ヨーロッパの覇権』『近代ヨーロッパ史―世界を変えた19世紀』『教養としての「フランス史」の読み方』『物語 パリの歴史』ほか編著書や訳書など多数。